オオカミ社長は弁当売りの赤ずきんが可愛すぎて食べられない
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振り返ってみれば、月子は残るスタッフの元を順番に回り、一人一人に挨拶をして回っていた。
月子はなんと義理堅く、礼儀を弁えた行動をするのだ! しかし月子、鼻の下を伸ばした男共にそうも容易く笑みを向けてはいかん!! ……佐藤、小林、お前らは次の人事異動で僻地だ!
俺はくるくると挨拶をして回る月子を眩しい思いで、そして若干悶々としながら見つめていた。
そうして全員に挨拶を終えた月子が、小走りで俺の元にやって来る。
シフォンのブラウスに、紺のスカートを纏っただけの姿。しかしシンプルな装いが、月子自身の清廉な美しさを際立たせていた。
「お待たせしました」
麗しい精霊の如き月子の笑みに、俺は正しく見惚れていた。
「あの、明彦さん?」
答えない俺を、月子が訝し気に見上げて首を傾げる。それに伴って、艶やかな髪が一筋、空気を孕んでサラリと流れる。
俺は湧き上がる衝動を堪えるように、そっと拳を握り締めた。
「なんでもない、行こう」
本当は、月子の艶やかな髪を指に絡めて撫でたかった。艶やかな髪に、口付けたかった。
俺はそれら全てを笑みの後ろにひた隠し、月子を促して経営企画室を後にした。
並んで社屋を闊歩する俺達に、方々から視線が注がれる。それを心地よく感じながら、俺は地下の役員駐車場に向かった。
「あの、明彦さん? 駅まで一緒にって?」
行き先に気付いた月子が驚いたように声を上げた。
「あぁ、そういえば今日は車で来ていたんだ。送るよ、乗って?」
「え?」
月子は動揺が隠せない様子だが、対する俺は確信犯だ。俺は反論されるより前に、助手席の扉を開けて月子を促す。
「さぁ、乗って?」
「あ、えっと」
細い背中をトンッと押して車内に促し、身をのり出して月子にシートベルトを装着させる。そうして助手席の扉を閉めると、俺は素早く運転席に乗り込んで、すぐに車を発進させた。
ここまで、時間にして僅か一分ほどの出来事だ。
チラリと隣を見れば、月子はポカンとした様子で、目を瞬いていた。
「強引に誘ってしまってすまなかった。しかしこうでもしなければ、月子は送らせてくれんだろう?」
「……明彦さん」
月子は少し困ったように笑った。
「アパートまで送られるのがうまくないならば、月子のいいところで下ろそう」
俺の言葉に、月子は驚いたように目を見開いた。
内定取り消しの一件で、今でこそ俺はアパートも含めた、月子の状況を知っている。
月子の住まうアパートは築六十年を越え、見た目にもかなり年季が入った物件だ。しかも六畳二間に、一家六人が暮らしている。
きっと月子は、これらを知られたくなかったのだ。
「いえ、それじゃお言葉に甘えてアパートまでお願いします」
けれど僅かな逡巡の後に、月子はこんなふうに答えた。
「よし、任せておけ」
月子の答えに、自ずと頬が緩んだ。
月子にとっては別段、意味があっての事ではないかもしれない。単に、既に知られている住所を、今更隠す必要もないと思っただけ。
けれど俺は、月子のテリトリーに踏み入る事を許されたような、月子に一歩近づけたような、そんな気がしていた。