夜のしめやかな願い
音楽教室にいる経営者の息子を思いだして憂鬱になる。
最初の出会いはレッスン室からもれているピアノの音だった。
モーツアルトの小品曲。
音の粒がコロンとして、明るい色で跳ねて転がっていく。
さゆりはその演奏の素晴らしさに、そっとドアの窓から中をのぞいた。
「へ」
まぬけな声がもれる。
ピアノにむかっているのは、まるで黒い狼だった。
長身の体を丸めてピアノにかがみこんで弾いている。
黒いシャツに黒いスラックス。
男性にしては少し長めの黒髪が横顔にかかっている。
薄暗くてタバコの煙が漂うバーでジャズを演奏していそうな雰囲気だ。
でも聞こえてくるのは、無邪気なモーツアルト。
底抜けに明るい音色に、繊細な性格なんだろうなと思わせる音色が隠れている。
呆けたようにみつめたまま演奏を聴いていた。