シュガーとアップル



ハンナは自分の心臓の音が耳にまで響いてきて、聞こえるはずの店内の音楽や人の声がほとんど聞こえなかった。


少し経っても伯爵は何も言わない。

自分の言ったことが何か失礼だっただろうか。

そう不安になりかけていた時、ぽん、と頭に微かな重みを受けた。


「!」


伯爵の素肌の手が、ハンナの髪に触れたのだ。

大きな手が、ハンナの髪をそっと撫でる。

ハンナは驚いて伯爵の方を見上げようとするが、頭にかかった僅かな重みを動かせなくて、その場に固まってしまう。


彼の手は、どういうわけか髪にとどまらずハンナの左頬まで降りてくる。

頬にぴたりと感じる、伯爵の体温と指の感触。

じりじりと首をあげ、じっとこちらに注がれたまっすぐな視線と目が合った。目があった瞬間、彼以外、周りの光景は何も入ってこなくなる。

伯爵の親指が、見開いたハンナの目尻をすっと撫でた。

ゆったりと、何度も、形を確かめ感触を味わうかのように、伯爵の親指は目の下を行き来する。

ハンナは自分の心臓がちゃんと動いているかわからなかった。周りの光景も音も、彼の指が動くたびに遠のいていくように思えた。


「は、くしゃく、さま…」


ハンナはやっとの思いで掠れた声を絞り出した。

伯爵はハッとしたように目を瞬く。ハンナの頬から手がするりと離れた。

伯爵の温もりが離れていって、少し寂しくなる。


「すまない、つい」


伯爵は早口でそう言った。

自分で自分の行動に戸惑ったような、その顔はいつもの落ち着いた穏やかな彼とは違っている。


「…嫌だったかな」

「い、え…」


(びっくりした…っ)


ぎゅっと自分の左胸を手で抑える。まだ心臓の鼓動が速い。深く息を吐いてもおさまりそうにない。

放心しながら、伯爵が触れていた頬に自分の手をあてた。

熱い。じんわりと汗が滲みそうだ。


「君にこんなふうに軽々しく触れて…その、軽薄な男だと誤解しないでくれないか」


伯爵は言った。

綺麗な眉尻を下げ、困ったようにハンナを見つめている。

意外だ。伯爵がなんだか子供みたい。ハンナの機嫌を窺うような心配そうな瞳。いつもおっとりとした視線でしか物を見ない彼が、今は目のやり場を失っているように泳いでいる。

無性に胸が苦しくなった。きゅ、と、甘い胸の疼き。

ハンナは首を横に振った。


「誤解なんて…しません」


(…嬉しい)


心の中でそう思った。

だが、それを口に出して伝えることはできなかった。



< 22 / 28 >

この作品をシェア

pagetop