シュガーとアップル
ハンナは自分の心臓の音が耳にまで響いてきて、聞こえるはずの店内の音楽や人の声がほとんど聞こえなかった。
少し経っても伯爵は何も言わない。
自分の言ったことが何か失礼だっただろうか。
そう不安になりかけていた時、ぽん、と頭に微かな重みを受けた。
「!」
伯爵の素肌の手が、ハンナの髪に触れたのだ。
大きな手が、ハンナの髪をそっと撫でる。
ハンナは驚いて伯爵の方を見上げようとするが、頭にかかった僅かな重みを動かせなくて、その場に固まってしまう。
彼の手は、どういうわけか髪にとどまらずハンナの左頬まで降りてくる。
頬にぴたりと感じる、伯爵の体温と指の感触。
じりじりと首をあげ、じっとこちらに注がれたまっすぐな視線と目が合った。目があった瞬間、彼以外、周りの光景は何も入ってこなくなる。
伯爵の親指が、見開いたハンナの目尻をすっと撫でた。
ゆったりと、何度も、形を確かめ感触を味わうかのように、伯爵の親指は目の下を行き来する。
ハンナは自分の心臓がちゃんと動いているかわからなかった。周りの光景も音も、彼の指が動くたびに遠のいていくように思えた。
「は、くしゃく、さま…」
ハンナはやっとの思いで掠れた声を絞り出した。
伯爵はハッとしたように目を瞬く。ハンナの頬から手がするりと離れた。
伯爵の温もりが離れていって、少し寂しくなる。
「すまない、つい」
伯爵は早口でそう言った。
自分で自分の行動に戸惑ったような、その顔はいつもの落ち着いた穏やかな彼とは違っている。
「…嫌だったかな」
「い、え…」
(びっくりした…っ)
ぎゅっと自分の左胸を手で抑える。まだ心臓の鼓動が速い。深く息を吐いてもおさまりそうにない。
放心しながら、伯爵が触れていた頬に自分の手をあてた。
熱い。じんわりと汗が滲みそうだ。
「君にこんなふうに軽々しく触れて…その、軽薄な男だと誤解しないでくれないか」
伯爵は言った。
綺麗な眉尻を下げ、困ったようにハンナを見つめている。
意外だ。伯爵がなんだか子供みたい。ハンナの機嫌を窺うような心配そうな瞳。いつもおっとりとした視線でしか物を見ない彼が、今は目のやり場を失っているように泳いでいる。
無性に胸が苦しくなった。きゅ、と、甘い胸の疼き。
ハンナは首を横に振った。
「誤解なんて…しません」
(…嬉しい)
心の中でそう思った。
だが、それを口に出して伝えることはできなかった。