シュガーとアップル
幻のように思われた伯爵の来店は幻で終わらず、それ以来、伯爵はたびたびベーカリー・シュガーに現れるようになる。
何度も現れるうちに、古株の常連主婦たちの間ではすっかり伯爵のファンが出来上がっているらしい。
時折ハンナに「あの貴族さまはいらっしゃらないのかね」と興味津々なご婦人方が聞いてきたりする。
伯爵には、上流階級者特有の平民を見下すような気取ったところがなかった。
伯爵の身分でありながら、ベーカリー・シュガーにやってくる来客たちに爽やかに挨拶をしてくれたり、若い好青年に興味津々な女たちが何かと図々しく会話を持ち掛けても、嫌な顔ひとつせず紳士の対応で受け答えてくれる。
治安がいいとも言えないこの町に付き添いの者もつけず、馬車も店先に見かけたことがないので、どうやら1人で来ているらしかった。それにも驚く。
それほどまでに我々のパンが気に入ってくれているのだろうかと、いつもは気難しいマルレーネもさすがに恐縮した。
貴族のつかの間の趣味のようなものかもしれない。けれどその趣味が半年近くも続くと、貴族というよりも常連客という位置づけのほうがしっくりきはじめていた。
常連仲間の女たちや仕事の合間を縫って来店する男たちとも、伯爵は随分打ち解けているようで、親しげに言葉を交わすこともしばしば。
その傍ら、店の店員でありながらハンナは未だ緊張してまともに顔も見れない有様である。
相手が貴族だからなのか、はたまた恋をしてしまった相手だからなのか。
話してみたい気持ちはもちろんある。
けれど、まだ16歳の初々しい乙女には、想いを寄せる男性にずかずか話かけにいける勇気が湧かなかった。
ただ密かに今日も自分の作ったアップルパイを買っていく様子を、嬉しさをかみしめながら見送ることにつとめている。