シュガーとアップル
伯爵は目を白黒させているハンナを眩しそうに目を細めて見つめ、くすりと笑った。
「アップルパイとクロワッサン、ありがとう」
「あっ……はい! ま、またのご来店をお待ちしています!」
紙袋を手に取り、伯爵は優雅に身を翻して去っていく。
ハンナはその姿をしばらくぼうっと見つめた。
まるで夢のように一瞬のことに思えたが、ハンナの波打つ鼓動はおさまらない。
初めて目を見て言葉を交わせた。
たった一言二言を交わしただけだったけど、ハンナは今日ほど幸せな日はないと思った。
(赤の方が似合う……そんなことを言っていただけるなんて)
首の後ろの紫のリボンに触れ、また頰が赤くなっていくのを自覚する。
「ハンナ、お客さんは帰ったのかい?」
はっと我に戻ると、マルレーネがクロワッサンの乗ったトレイを両手に持って横に立っていた。
「はい、ちょうど今お帰りになりました」
「そう。しばらくは客足もそんなにないだろうから、あんたは休憩にしな。2階に貰い物の焼き菓子があるから食べていいよ」
「焼き菓子! いただきます!」
甘いものには目がないので即座に答えると、マルレーネは呆れたようにハンナを見る。
「全部はだめだよ。食べ過ぎは身体によくないからね。ほどほどに」
「もちろん、わかってます。アップルパイの補充だけしちゃいますね」
「それくらいあたしがやっておくよ。いいからあんたは休憩に…」
「大丈夫です! 私の作った商品は私が並べなきゃ。最近私、並べ方もなかなか奥が深いって気づいたんですよ、マルレーネさん!」
「はあ…?」
ぽかんと口を開けているマルレーネに自信を持って笑いかけ、ハンナはステップを踏むような足取りで厨房へ向かった。
カウンターのそばに立ち尽くしたままその姿を見送ったマルレーネは、なんだか意味がわからないまま置き去りにされた気分だ。
「…まったく、変な子だ。あんなにはしゃいで、何か楽しいことでもあったのかね」
厨房に入って、にやついた笑みを垂れ流しながらアップルパイをてきぱきトレイに乗せるハンナの様子を見て、ヘンドリックもまたマルレーネと同じことを思った。
もちろん当の本人は彼らの視線には全く気がつかない。
彼女の頭の中は今、伯爵の微笑みと週末の休日の過ごし方で埋め尽くされているのだから。
(次のお休みの日、街の商店街に行ってみよう)
今までリボンの色などなんでもいいと思っていたけど、伯爵が赤が似合うというのなら、やはり赤を身に付けたい。
全くゲンキンなことだが、ハンナの中で週末の出かける予定が変わることはなかった。