いつまでも愛していたかった
時は少し遡る。
彼女の言い分は至ってシンプルなものだった。

『赤ちゃんを授かりましたので、退職します。お腹が目立つ前にはお式を挙げますので、どうぞ皆様でいらしてくださいね』

なんの噂もなかった彼女が突然にそんなことを言うものだから上司の慌てぶりと言ったらなかった。
それもそのはずで、彼女宛てのこれみよがしな息子自慢が通じなかったのだから。
けれどその状況を哀れんでいられるのもごく僅かだった。
上司の『あの、お相手は……?』という問いに、彼女は優雅に微笑んで、彼の名を告げたのだ。
『経理の林明史さんです』と。

その衝撃たるや、上司の比ではなかったと言って過言ではないと思う。
彼女の視線が私を顔を捉えた時、それまでの優雅な微笑みから勝ち誇った笑みのように変わったように見えたのは被害妄想というものだろうか。
どちらにしたって私がひどい顔をしていたことに違いはないのだろうけれど。
その日、彼女がいつの間に居なくなったのかも、どのようにして仕事を処理したのかも今となっては思い出すことは出来ない。
後日クレームがなかったことが救いだ。

ルーティンとはある意味恐ろしいもので、衝撃的なことがあっても自宅へと自然に帰ってきていた。
帰宅して家に明かりが灯っているのを見てそういえば今日は会う約束をしていたっけ、なんてぼんやりと思ったものだ。
冷蔵庫には彼の好きだったおかずの下拵えをしてあった。
何も知らなかった、昨日の夜のうちに。

静かにソファに腰掛ける彼に、知らないふりをして帰宅してご飯の支度をした。
その間彼はぎこちない態度で私を見つめていた。
テーブルには二人分の暖かな食事が並ぶ。
どうぞ、とお茶を注いで、私は食卓につこうとした。
その時、ソファから動くことをせずに、彼は口を開いたのだ。

『君に、別れてなんて言えない』

と。
俯いた彼の顔は見えない。
それは私にとって、これ以上ないほどの愛の言葉であると共に、これ以上ないほど残酷な言葉だった。

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