音にのせて
中庭を出た私達はそのまま学校を出た。握られていた腕も解放され、今は凌玖君の隣りを並んで歩いている。凌玖君の横顔を隣りから見上げても、彼は黙ってただ前を見ながら歩いているだけだった。
普段だったら凌玖君は必ず迎えの車を呼ぶのだが、今日は何故か歩いたまま家までの道を進んでいる。
どうして私を連れてきたのか。
どうして歩いて帰っているのか。
聞きたい事はあるが、今の凌玖君には聞ける雰囲気では無かった。



しばらく歩くと、小さな公園があった。すべり台と砂場、ブランコがあるだけの本当に小さな公園で、遊んでいる子供は誰もいない。

「ここ、入るぞ」

それだけ言って、凌玖君はその公園に入って行った。
私も何も言わず、凌玖君の後に続いた。



私達は小さなベンチに並んで座った。
凌玖君は長い足を組み、黙って空を見上げていた。
私は凌玖君に言葉をかける勇気も無く、ただ黙って地面を見つめているだけだった。

「…どこまで聞いたんだ?」

急に発せられたその言葉に、私は勢いよく凌玖君の方へと目を向けた。

「俺の事だよ。虐待の事と…記憶喪失って事も知ってんのか?」

私は目を見開いた。

「どうして…?記憶喪失の事は凌玖君は知らないって紫央君が…」
「あいつらはそう思ってるだけだよ。前の女が俺の本当の母親じゃない事も、俺が記憶喪失だって事も知っている」

私は驚きのあまり言葉を失った。

「俺が記憶喪失になったのは小2の頃らしい。記憶喪失っていっても一部分のことしか忘れていないみたいだから、当時は自分が記憶喪失だなんて思わなかった。だけど、不思議だったのは親父はしっかり覚えているのに、母親の記憶だけがぼんやりしていた。目の前に母親だと名乗る奴がいても、どこか疑問を感じていた。だけど、周りが母親だと言う言葉を、俺も信じるしかなかった。まぁ、その母親だと言われていた女が、親父の再婚相手だったみたいで、俺には再婚のことは隠して、その女を本当の母親だと認識させていたみたいだけどな」
「それなら…いつから自分が記憶喪失だって知ったの?」
「…あいつに虐待を受けていた時だ」

私の質問に、凌玖君は一瞬目を伏せながら答えた。

「最初はあの女も優しかった。俺のことを可愛がってくれていたし。でも、それは親父の前だけだった。親父が仕事の都合で2年ぐらい家を空けることになったんだ。その頃から、その女は急に俺を殴ったり、蹴ったり…好き放題してきやがった」

私は一瞬、体が強張るのを感じた。

「ガキだった俺には、やり返す力がなかった。それを良いことに、あいつは何かある度に俺へ当たってきた。まぁ、最終的に室井がその状況に気付いてくれて、親父にそれを言って離婚が決まったみたいだけど」

「そう…だったんだ…」

私は何と言えばいいのか分からなかった。普通に話している凌玖君だが、当時のことを思うと本当に辛かっただろう。

「記憶喪失のことは、その女に言われたんだよ。酒を飲んでた時に、ぽろりとな…」

“お前も災難だねぇ。本当の母親の顔すら覚えていないなんて”

“本当の…母親?”

“そうさ。私はあんたの母親じゃないんだよ。あんたの母親は死んじまったからね”

“え…?”

“記憶喪失になって、周りからは私が母親だと思わされて…ホントにお前は可哀想な奴だねぇ”

「…周りの人達に、本当のことを聞かなかったの?」
「聞く気にもならなかった。親父はもちろん、他の奴らもみんなで俺を騙していたんだから。あんな女を…ずっと母親だと思わせていたんだからな…」

理由があってやったこと。それは凌玖君も分かっていると思う。
でも、長い間ずっと本当のことを教えてもらえなかった凌玖君にとっては、騙されていたとしか思えなかったのかもしれない。

「…お母さんのこと…思い出したい?」

私の言葉に、凌玖君は黙ったまま空を見上げていた。
その碧い瞳には、ゆっくりと流れる空の白い雲が映されている。

「…分からねぇ」

小さく呟かれた凌玖君の言葉は、今にも消えてしまいそうな声だった。

「昔は知りたいと思った。俺の母親はどんな奴だったのか。どうして死んだのか。でも、どんなに思い出そうとしても思い出せねぇ。そんな時、ふと思った。もしかしたら、俺の母親は俺を捨てたんじゃないか…ってな」
「え…?」
「その可能性もあるってことだ。俺を捨てて、どっか別の場所に行って…死んだ。そう考えたら嫌になって…もう、考えないことにしたんだ。だけど…」

凌玖君は瞳を閉じ、一呼吸置いた。

「ピアノ…あれを見ると、不思議な感覚がする。それに…お前が昨日弾いてくれた曲…」
「愛の挨拶?」
「そう。その曲を聞いた時、懐かしく感じた。もしかしたら、母親と何か関係があるのかもしれない。…そうやって、俺は母親の面影を無意識に追っているんだろうな」

「そんなことしても、今更どうしようもないのに…」そう言って、凌玖君は自嘲ぎみに笑いながら瞳を伏せた。
そんな凌玖君に、私はかける言葉が見つからなかった。本当のお母さんのことを知らない私が何を言っても、意味が無いように感じた。
でも、どこか寂しそうにしている凌玖君を、このままにしておくことは出来なかった。私は、そっと手を伸ばし、凌玖君の頭に触れた。凌玖君は一瞬びくりと肩を震わせたが、振り払おうとはしなかった。私はそのまま凌玖君の頭を撫でるようにゆっくりと動かした。

「…子供扱いかよ」

ぼそりと言われた言葉に、私はハッとして手を離した。

「ご、ごめん!そんなつもりじゃなかったんだけど…」
「…フッ、良いよ、別に」

そう言って笑う凌玖君の表情は、どこか照れくさそうに、それでも優しく笑っていた。

「ホント…不思議な奴だよ、お前は。気付いたら、こうやってお前に昔のことを話しているんだからな」

私はその言葉がとても嬉しかった。凌玖君と少し近付けたような、そんな気がしたから。

「…お前はいつからピアノ習ってたんだ?」
「習っていたんじゃないんだけど…。少しだけ、教えてもらっていたの」

そう言って、私は昔を懐かしむように空を見上げた。
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