音にのせて

第8話 音楽との出会い

――これは、今から10年前の話。私がまだ小学2年生だった頃のこと。
8月の暑い夏、お父さんが病気で他界した。
それからは、今まで家事一色だったお母さんが仕事を始め、朝から夜遅くまでずっと働いた。



学校も始まり、私もいつものように学校へ行くようになった。
でも、今まで帰ってくると「おかえり」という優しい声と笑顔で待っていてくれるお母さんが今はいない。帰っても、誰も迎えてくれる人はいない。
でも、毎日頑張って働いてくれているお母さんに我が侭は言えなかった。
お父さんが亡くなって1番辛いのはお母さんのはずなのに、お母さんは辛そうな表情を私に見せなかった。
そんなお母さんを見ていて、子供ながらにこれ以上心配をかけさせたくないと思っていた。





そんなある日、私は学校帰りに少し遠出をした。遠出と言っても、ただボーっと知らない道を歩いているだけだったが。
それでも、「ただいま」と言う自分の声だけが木霊する、シンと静まり返っている家に帰りたくなかった。
あてもなくブラブラ歩いていると、どこからかピアノが聞こえてきた。私は、一瞬でそのピアノに興味を持った。
小学校で先生が弾くピアノを何度も聴いたことはあるが、今聞こえてくる音には何故か惹かれるものがあった。
ワクワクするような。
ドキドキするような。
私は走り出し、音が聞こえてくる方へ向かった。



着いた先は小さな教会だった。もう何年も前に作られたような教会で、所々にその年月が刻まれている。
入り口の扉が少し開いていて、中からピアノの音が聞こえてきていた。
私は、恐る恐るその隙間から中を覗いた。
中には窓がなかったが、両脇の壁にはステンドグラスが施され、そこから柔らかい日差しが注ぎ込まれていた。正面には、小さな可愛らしい天使が数人、綺麗な空を飛びながら微笑んでいる大きな絵が飾られていて、その上には輝く十字架があった。
そして、その中で優雅にピアノを弾いている女性がいた。長い黒髪を後ろで1本に結び、彼女が揺れる度にサラサラと流れる。長くて細い指が鍵盤の上を華麗に動き、まるで踊っているようだった。そして、印象的だったのは、彼女の碧い瞳。ステンドグラスから差し込む日差しを受け、まるでキラキラ輝く宝石のように綺麗だと思った。

すっかり彼女に見惚れてしまい、私はうっかり手をかけていた扉を押してしまった。ギギッと小さな音を立てた扉に、ピアノを弾いていた女性は驚いてこちらを見た。
私はビクッと体が震えた。勝手に入ってきて怒られるのではという恐怖心から声を出すことも出来なかった。
しかし、ピアノを弾いていた女性は優しく微笑むと、こちらにゆっくりと近付いて来た。

「こんにちは、可愛いお嬢さん」

私の目線と同じくらいにまで屈むと、彼女は優しく言った。

「どうしたの?迷子かな?」
「あ…違うの…ピアノが…」

私はうまく言葉が出ずに俯いてしまった。
そんな私に、彼女は優しく頭の上に手を置いた。

「ピアノ、好きなの?」
「…分からない、けど、お姉さんのピアノは好き!」
「そっか。ありがとう!じゃあ、ピアノ聴いていく?」
「…うんっ!」

私の言葉に少し照れたように笑いながらも、優しくかけられた言葉に、私は大きく頷いた。
彼女は私を教会の中へ優しく促すと、私をピアノの近くにあるイスに座らせた。

「そういえば、お嬢さんのお名前は?」

再びイスへ腰掛けると、彼女がおもむろに尋ねてきた。

「松山奏」
「奏ちゃん…か。じゃあ、今日は奏ちゃんが元気になるように弾くね」

私は自分の心が読まれているのかと一瞬驚いたが、彼女の演奏が始まるとそんな事はどうでも良くなった。
鍵盤の上を踊るように動く指から奏でられる音は、1つ1つが粒のように弾けては綺麗な旋律を奏でている。それはまるで、心の中にスっと入ってきて、奥底にある冷たくなったものを温めてくれるようだった。



演奏が終わると、私は満面の笑みでおもいっきり拍手をしていた。

「お姉さん、凄い!凄く上手!」
「ありがとう。…そうだ!奏ちゃんも弾いてみる?私教えてあげるから」
「ホント!?」





それから毎日、私は学校の帰りにこの教会に通った。そんな中、彼女の名前が「恵美」ということも分かり、私はピアノを教えてもらっていることから、彼女を「恵美先生」と呼ぶようになった。
恵美先生は私が行くと、いつもピアノを弾いている。そして、いつも笑顔で迎えてくれる。
恵美先生のピアノを聴いて、教えてもらって、他愛無い話をして、空が夕日で赤くなる少し前に私は家へと帰った。
この時間が、私にはとても楽しかった。
音楽の素晴らしさ、ピアノの楽しさを教えてくれた恵美先生が、とても大好きだった。





そんなある日、私はいつものように教会で恵美先生のピアノを聴いていた。
ピアノのすぐ側にあるイスに腰を下ろし、彼女の横顔を見つめながら演奏を聴く。

「…先生」
「ん?」

私の呼びかけに、彼女は演奏している指を止めずに答えた。

「先生は、どうしていつもここでピアノを弾いているの?」

私の質問に、彼女はなかなか答えてくれなかった。
小さな教会の中には、先生が弾いてくれているピアノの音だけが響いている。

「…神様に、お願いをするため…かな」

彼女はピアノを弾いたまま、ぽつりと呟くように答えた。その声はあまりにも小さかったので、ピアノの音で消されるかと思うぐらいだった。

「神様に?」
「そう。私の想いが届きますように…って」
「どんな想い?」

ちょうどそこでピアノの演奏が終わった。
彼女はゆっくりとこちらを振り向き、笑った。しかし、彼女の碧い瞳はどこか寂しさそうに感じられた。

「とても…とても大切な想い…」

先生はそう言って、私の頭を優しく撫でた。

「音楽ってね、自分の気持ちを伝えることができるのよ。楽しかったり、嬉しかったり…時には悲しかったり。そういう今想っている気持ちを、音楽で相手に伝えることができるの」
「へぇ~…凄いね、音楽って!」

彼女は再びピアノへ体を向けると、演奏を始めた。

「この曲はね、『愛の挨拶』って曲」

先生は、演奏しながら話した。

「大好きな人に捧げるために作られた曲。私、この曲が大好き」
「綺麗な曲だね」

私はしばらく、先生の弾く演奏に耳を傾けていた。
しかし、急にピアノの音が止まってしまった。

「…先生?」
「…ごめんね、急に。ちょっと昔のことを思い出しちゃって…」

恵美先生は目尻を手で拭いながら、私に笑顔を向けた。私は、先生が泣いていることに気付いた。

「先生、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ありがとう」

心配になって先生の側に駆け寄った私に、先生は優しく頭に手を乗せた。

「そうだ。奏ちゃんにこれをあげる」

そう言って、先生は私に1冊の楽譜を渡した。

「さっきの曲…『愛の挨拶』の楽譜だよ」

私はその楽譜を受け取ると中を開いた。
まだスラスラと楽譜を読むことができない私にとっては、その楽譜はとても難易度が高い曲に感じられた。

「今はまだ弾けないかもしれないけれど、いつかきっと弾けるようになるわ」
「本当!?私も先生みたいに上手に弾けるようになれるかなぁ?」
「うん。奏ちゃんならきっと出来る。…でもね、この曲は気持ちも大切なの」
「…気持ち?」
「誰かを愛する気持ち。奏ちゃんにとって本当に大切に想える人ができたら、この曲は初めて完成するの。音楽はね、上手に弾けることも大事だけど、弾いている人の想いがちゃんと込められているってことが1番大切なの。相手に何を伝えたいか、その曲が何を語ろうとしているのか…。それを私達が音楽にして伝えていく。それを伝えることができた時、音楽は完成するの。だから…そのことを忘れないでいてね」

恵美先生は優しく笑ってそう言った。



次の日、私がいつも通り教会に行ってみると、そこには恵美先生の姿はなかった。恵美先生と出会って2週間後のことだった。――





「その後も何度か教会に行ってはみたんだけど、やっぱり先生とは会うことができなくて…。私が中学に行く時にお母さんの仕事の都合で引っ越しをしたから、それっきりその教会にも行ってないんだよね。…今頃、先生はどうしてるのかなぁ…」

懐かしい気持ちに浸りつつ、私は最後にポツリと呟いた。
会えるのだったらもう1度会いたい。そんなささやかな願いを込めて。

「教会…。ピアノ……『愛の挨拶』…」

その時、私の話を黙って聞いていた凌玖君が、うわ言のように囁いた。
片手で頭を抱えつつ、少し視線が揺らいでいる彼の様子に、私は少し心配になった。

「凌玖君…どうかした?」

私の声に、凌玖君はハッとしたように視線を合わせてくれたが、「…何でもない」と言ってすぐにまた視線を逸らされた。

「…そろそろ帰るぞ」

凌玖君はそう言って急に立ち上がると、私を見向きもせずスタスタと歩き始めたので、私も慌てて彼の後を追いかけた。



公園を出る所で、前を歩いていた凌玖君が急に立ち止まったため、私も立ち止まる。

「…さっき言っていた教会って、どこにある教会だ?」

凌玖君は正面を向いたまま尋ねてきた。

「え?えっと…ここの隣り街にあった教会で…住宅地から少し離れた所にぽつんとあったかな…」
「…そうか」

その抑揚が無い声から凌玖君が今何を考えているのか、私には分からなかった。
しかし、少し雰囲気が変わったことだけは感じられた。その理由を聞くこともできず、再び歩き始めた凌玖君の後ろを私はただ黙って歩いた。
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