音にのせて
――それは、今から10年前の話。
恵美が奏に「愛の挨拶」の楽譜を手渡した日のことだった。

その日も恵美はいつものように奏と別れ、凌玖が小学校から帰ってくるのを待っていた。

凌玖が幼稚園に通い始めた頃から、恵美はこの教会でピアノを弾いていた。この教会の牧師が、恵美の大学時代に教わっていた先生の知り合いということもあり、夕方少しの時間だけ貸してもらうことができた。
恵美はここでピアノを弾きながら凌玖の帰りを待ち、学校が終わると室井さんがここまで凌玖を連れて来てくれて一緒に帰る。それが、凌玖と恵美の日課だった。

「お母さん、ただいま!」

ピアノを弾いていた恵美のもとに、小学2年生の凌玖が元気よくやって来た。

「お帰り、凌玖」

恵美は手を止めると、優しい笑顔で凌玖を迎える。

「今日は聴いたことない曲だね。何て曲?」

今までに聞いたことのない曲を弾いている恵美に、凌玖は興味深々といったように尋ねた。
凌玖は恵美の弾くピアノが好きで、こうやって教会で演奏を聴くのが何よりも楽しみだった。

「これはね、『愛の挨拶』って曲よ」
「『愛の挨拶』?」
「そう」

恵美は再びその曲を弾き始めた。

「綺麗な曲だね」

そう言って、凌玖は恵美の演奏に耳を傾けた。

「…これはね、愛する人に贈られた曲なの」

弾きながら、恵美が言った。

「シンプルだけど真っ直ぐで、気持ちが直接伝わってくる…そんな曲よ」
「じゃあ、これはお母さんがお父さんに贈る曲なの?」
「…ちょっと違うかな」

恵美は演奏している手を止め、凌玖を見つめた。

「お父さんは好きだけど、愛してるとは違うの」
「違うの?」
「お母さんが愛してる人は…ただ1人だけだから。でも、今日でその人とはお別れ。その意味も込めて、今日はこの曲を弾こうと思ったの」

そう言って、恵美は凌玖の頭を優しく撫でた。

「凌玖も、いつか心から愛す人が見つかれば分かる。その時は…その人を大切にしてあげなさい。この曲のように優しく包んであげるように…」
「…うんっ!」

その時の凌玖には恵美の言葉が理解できていなかったが、恵美の温かい手と優しい笑顔に大きく頷いた。





その後、恵美と凌玖は手を繋いで教会の外で待っている室井の元へ向かった。室井も2人が近付くと笑顔で後部座席のドアを開ける。
いつも通りの光景。
いつも通りの幸せなひと時。
しかし、悪夢は急にやってくる。
誰も予想していない出来事によって、今までの幸せな時間を一瞬で絶望に変えてしまう。

その日は少し肌寒く、恵美は肩からストールを羽織っていた。空を見上げると薄暗い雲が広がっていた。雨が降り出す前に車に乗り込もうとした恵美達に向かって急に強い風が吹き、恵美のストールが飛ばされてしまった。

「あ、俺が取ってくるよ!」

まるで空を泳いでいるかのようにフワフワと飛んでいくストールを、凌玖は捕まえようと駆け出した。
風も一瞬だったおかげか、ストールはさほど遠くまで行くことなく、フワリと地面へ落ちた。
凌玖がストールを拾い上げ、恵美達の所へ戻ろうとした直後、右側から大きなクラクションを鳴らしながら車が近付いてくるのが凌玖の目に飛び込んだ。ストールを追いかけるのに夢中で、凌玖は車が来ている事にも気付かずに飛び出してしまったのだ。

「凌玖っ!」
「坊ちゃん!」

恵美や室井の声が凌玖の耳には遠くに感じていた。
あまりの驚きで凌玖は身体が動かなくなり、咄嗟に目を瞑った。
何かに押され、一瞬体が宙に浮いた感覚と、直後、体を地面に軽く叩きつけられて鈍い痛みを感じた。

ほんの一瞬だけ、凌玖は気を失っていたのだろう。
誰かがすぐ近くで何かを言っているのが耳に届き、凌玖はゆっくりと目を開けた。

「え…?」

しかし、目に飛び込んできた光景に、凌玖は言葉を失った。
そこには、血を流して横たわっている母の姿と、その母を抱き上げ必死に声を掛けている室井の姿があった。

「か…さん…?」

凌玖は恵美に近付いたが、恵美の瞳は閉じられたままだった。
室井が何かを言っているようだったが、凌玖にはその声も届いていない。

「お母さん…起きてよ…!目…開けてよっ!…お母さんっ…!おかーさぁん!!!!」

凌玖の悲痛の叫びは大きく…大きくその場に響き渡った。





それからすぐに病院へ運ばれた恵美だったが、残念ながら命を引きとった。
凌玖はいつの間にか気絶をしてしまい、病院のベッドの中で眠っていた。
身体のほうは打ち身程度で、どこも怪我はしていなかった。

父の勇一と、当時西園寺財閥の会長だった凌玖のお祖母さんも病院に駆けつけ、室井も含めた3人は凌玖が眠る病室でただ黙って凌玖を見つめていた。



しばらくして、凌玖の意識が戻った。
その碧い瞳は、長い眠りから覚めたように虚ろいでいた。

「凌玖、大丈夫か!?」
「坊ちゃん!!」

勇一と室井は凌玖の顔を覗き込んだ。

「…お父さん…俺…」
「大丈夫。ただショックで気絶してただけだから。怖かったろう。お母さんのあんな姿を見て…」
「…お母、さん…?」

その時、勇一は凌玖の様子がおかしいことに気付いた。

「…どうした?凌玖。どこか痛むのか?」
「お父さん、俺のお母さんって、誰?」

凌玖のその言葉に、勇一は言葉を止めた。

「…凌…玖?」
「俺、お母さんのこと、分からない…。思い出せない…」

勇一も室井も、凌玖の様子にそれ以上言葉が出なかった。





「…記憶喪失!?」

医者から伝えられた言葉に、勇一は驚きの声を上げた。

「ええ。記憶喪失と言っても、極一部のことだけのようです。それが、凌玖君のお母様のことなのでしょう。お母様の恵美さんは凌玖君を庇って車に撥ねられたみたいですが、それを凌玖君自身は自分のせいでお母様が死んだと思っていると思います。それが邪魔をして、お母様との記憶を思い出すことを遮ってしまっているようです」
「そんな…」
「先ほども申し上げた通り、凌玖君はお母様が死んだことを自分のせいだと思い込んでいます。そんな状態の彼に無理矢理記憶を思い出させようとしても、脳が異常をきたしてしまう恐れがあります。なので、彼が自然に思い出すことをお勧めします。しかし、自然に思い出せたとしても、心の中に残る罪悪感というのはなかなか消えないと思うので、彼自身が自分を追い込んでしまう可能性もあります。なので…」
「…分かりました。凌玖には…何も告げないことにします」

勇一は涙を堪えるように、震えた声で言った。





「…再婚!?」

お祖母さんの言葉に、勇一の怒りが混じったような声が病院の廊下に響いた。

「ええ。もう相手の方は決まっています。あとは手続きさえすれば…」
「ちょっと待ってくれ!恵美が死んですぐに再婚だなんて…!それに、凌玖だってあの状態だし…」
「だからじゃないですか」

憤慨している勇一とは裏腹に、お祖母さんは落ち着いた口調で言った。

「凌玖が母親の記憶を無くしているのなら、再婚相手を母親だと植え付ければ良いのです」
「あいつに嘘を付けと!?」
「どの道、あの子には本当のことは言えないのでしょう?ならば、余計な詮索をさせないようにしておけば良いのです」
「…だけどっ!」
「今度再婚する相手はホテル事業でもトップを率いている財閥のご令嬢。西園寺家はそこと縁があっても損はありません。あなたも西園寺財閥の社長なのだから、そういうことぐらい考えなさい」

会長であるお祖母さんの意見は絶対。勇一はお祖母さんの指示に従うしかなかった。



10年前の9月。その日はずっと雨が降り続いていた――





記憶が戻った凌玖君は、私に過去にあった出来事を全て話してくれた。
凌玖君はずっと下を向いたまま、ピアノのイスに座っている。
そんな凌玖君を、私は黙って見下ろしていた。


「…俺を庇って、母さんは死んだ…。俺が飛び出さなければ…母さんは…」

震えるような声で、凌玖君は呟いた。

「俺が…母さんを殺したんだ…」

凌玖君の膝の上で握り締められている拳が震えている。
私は凌玖君と同じ視線になるように静かに膝を付き、そっと凌玖君の右手に自分の手を添えた。

「…そんなことない」

私がそう言うと、凌玖君はゆっくりと視線を上げた。
碧い瞳に私が映し出され、不安そうに揺らいでいるようだった。

「恵美先生はきっと…凌玖君にそうやって悲しんでほしいと思っていないよ。だから…そんなふうに自分を責めないで。誰も凌玖君が悪いなんて思ってないから…」
「…お前に、何が分かるんだよ…。きっと母さんだって、俺のことを憎んでるんだ…」
「先生がそんなこと思うはずない!先生は…きっと先生は凌玖君のことを愛していたから…!だから守ってくれたはずなのに、凌玖君が先生のことを否定したらダメだよ…」

そう必死で訴える私の頬には、温かい滴が流れていた。
それでも、私は凌玖君から視線を外すことなく、真っ直ぐと見つめた。

「…何で、お前が泣くんだよ」

辛そうに笑いながら、凌玖君は左手で私の涙を拭った。

「…お前の頬…冷てぇ…。よく見りゃずぶ濡れじゃねぇか」

頬に触れた凌玖君の手が暖かくて、まるで触れられている部分から全身に温かい熱が流れていくようだった。

「ホント…バカだな、お前は…。俺なんかの為にこんなになって…」

次の瞬間、私は凌玖君の腕に包み込まれていた。

「りっ、凌玖君…!?濡れちゃうよ…!!」

何が起きているのか分からず、私は恥ずかしさと驚きで凌玖君の体を自分から引き離そうとした。

「…いいから…。もう少しこのままでいさせろ…」

強く抱き締められ、耳元で囁かれた凌玖君の声はとてもか細く、何かに縋ってないと崩れてしまいそうだった。

「…ありがとう……奏」

初めて呼ばれた自分の名前。
少しだけ掠れた声で囁かれたその言葉と心地良い凌玖君の体温を感じ、私は凌玖君の背中にそっと手を回し、ゆっくりと瞳を閉じた。

耳に入ってくるのは、未だ降っている外の雨音だけだった。
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