音にのせて
第13話 変化していく感情
パーティー会場を抜け出し、私はお手洗いへと来ていた。
手洗い場の鏡に映る自分に向かって、私はニコリと笑顔を作ってみる。
(…大丈夫、だよね)
少しぎこちないかもしれないが、ちゃんと笑えている。
心の中に広がっていた感情のせいで、さっきまではきっと笑うこともできていなかっただろう。
でも、椎名君が話を聞いてくれたお陰で幾分か楽になった。
(…ずっと暗い顔をしていたら、みんなにも心配かけちゃうからね)
そう自分に言い聞かせてまだ少し心の中に残るわだかまりに気付かない振りをしつつ、私はお手洗いから出て会場へと戻ろうとした。
しかし、その途中で壁に寄りかかりながら腕を組んでいる凌玖の姿があった。
何をしているのか疑問に思ったが、私が声をかけるより早く凌玖が私に気付いた。
「…よう」
「…どうしたの?こんな所で」
「お前を待ってた」
「え…?」
予想していない答えが返ってきて、私は驚いた。
「どうして?」と聞く前に、凌玖は私の方へ近付いてきた。目の前に立つ凌玖は冷たい視線で私を見下ろしている。そんな凌玖の雰囲気に、私は少し恐怖を感じた。
「…さっき、椎名と何話してた?」
「え…椎名君と…?」
「さっき椎名とバルコニーで楽しそうに話していただろ?何話してたんだよ?」
その言葉に、私は先程の椎名君との会話を思い出した。
凌玖の事を相談していたなんて、本人には恥ずかしくて言う事ができず、私は凌玖から視線を逸らした。
「べ、別に何も…」
そう言った直後、凌玖は私の顎を掴み、無理矢理顔を上へと上げた。
「嘘つくんじゃねぇよ」
冷たく放たれた言葉に、私はビクリと肩が跳ねるのが分かった。
怖くて逃げ出したいという気持ちもあるのに、凌玖の碧い瞳が私を捉えて動くことができない。
「…ムカつくんだよ。お前と椎名が楽しそうに話している所を見るだけで…イライラする」
「…ど、して…?」
私は動かない思考で半分無意識に言葉を発した。
その言葉に、凌玖は何故かハッとしたように目を開き、私から手を離した。
「…悪い。何でもねぇ」
凌玖は私から視線を逸らしながら小さく呟くようにと、パーティー会場がある方向へと向かって行った。
凌玖がその場から離れると、私は力が抜けたようにふらりとヨロめき、近くの壁に手をついて倒れるのを防いだ。
凌玖がどうしてそんな事を聞いてきたのか考えようとしても、うまく頭が動かない。
ただ、鼓動だけがドキドキと早鐘を打っていることだけは分かった。
その後、自分の気持ちが落ち着いた頃に、私はパーティー会場の中へと戻った。
会場の中へ入ってすぐに私は辺りをを見渡して凌玖の姿を探したが、凌玖の姿は見当たらない。
どこに行ったのかと疑問もあるが、正直今はホッとしている自分がいた。先程の件もあり、凌玖とは顔を合わせづらかった。
「…かなちゃん?」
急に呼ばれた声に一瞬驚きつつ視線を向けると、顔を傾げている紫央君がいた。
「どうしたの?」
「あ…ううん。凌玖の姿が見えないなぁ~って思って…」
「りっ君ならさっき…」
そう言った紫央君は何故か途中で言葉を止め、私の顔をじっと見つめてきた。
「…紫央君?」
「…ううん、何でもない!りっ君ならさっき用事があるって会場から出て行ったよ」
「…そう」
「りっ君と何かあったの?」
「え…!?」
そう聞いてきた紫央君の言葉に、私はあからさまに変な反応をしてしまった。これでは「何かあった」と言っているようなものだ。
それは紫央君にも分かったようで、「やっぱりね」と言われた。その言葉に私も観念して、言葉を続けた。
「…何かあったというわけではないんだけど…」
「ケンカでもしたの?」
「ケンカ…じゃないんだけど…。凌玖が、怒ってるみたいで…」
「怒る?りっ君がかなちゃんの事を?」
「…椎名君と何を話していたんだって聞かれて…。凌玖は私と椎名君が話しているのを見るとイライラするって…。理由も教えてもらえなかったけど…」
先程の出来事を簡潔に紫央君に話すと、紫央君は少し考える素振りを見せた。
「ん~…恭ちゃんの事もあるからあんまり口出しするのは良くないと思うんだけど…仕方ないか」
ボソリと呟くように話した紫央君の言葉を私は聞き取れず、聞き返そうとしたが、その前に紫央君は私に笑顔を向けた。
「ねぇ、かなちゃん!りっ君が怒ってる理由、教えてあげようか!」
「え…?う、うん」
「でもここじゃ教えられないから、これから浜辺に行こう!」
「浜辺に?どうして?」
「良いから!俺は後から行くから、かなちゃんは先に行って待っててくれる?」
どうして紫央君がそう言い出したのか分からなかったが、紫央君の勢いに圧倒されつつ、私はつい頷いてしまった。
そして、「絶対浜辺に行ってね!」と念押しする紫央君を背に、私は会場を後にした。
紫央君に言われた通り、私は近くの浜辺へとやって来た。
夜の海は暗く、冷たい印象を受けるが、空に浮かぶ月の光が水面に反射して輝いていることもあり、そこまで暗さは感じられない。それどころか、打ち寄せては引いていく波の心地よい音を聞いているだけで、気持ちが落ち着いていくのを感じる。
そんな波の音に耳を傾けていると、砂浜を歩く足音が聞こえた。
紫央君が来たのかと音がした方へ視線を向けると、そこには思いもしなかった人物が立っていた。
「…凌、玖…?」
「奏…?」
凌玖も私の姿に驚いた表情を見せていたが、バツが悪そうにすぐに視線を逸らされた。
「…何で、いるんだよ…?」
「紫央君と待ち合わせしてて…」
「はぁ?紫央と?何でこんな所で?」
「そ、それは…」
凌玖の事を相談していたとは言えず、つい口篭ってしまった。
しかし、そんな私の様子を見ると何かを察したのか、ハァ~と大きく息を吐いた。
「あ~…良いや。何となく予想がついた。…ったく、あいつは変な所で勘が良いというか…」
凌玖の言葉の意味が理解出来なくて私は首を傾げていたが、「こっちの話だから気にするな」と尋ねることも遮られた。
その後はお互いどこか気まずさもあるせいか視線を逸らしたまま黙ってしまった。
(…尚更気まずい…)
何か話そうにも言葉が出てこず、この場から離れようにも何と言って離れれば良いのか分からない。
「…少し、歩くか」
そんな空気の中、小さく放たれた凌玖の声が私の耳へと届いた。顔を上げると、まだ気まずそうな表情をしている凌玖と視線が絡む。
一瞬戸惑いもしたが、私は小さく頷いた。
誰もいない夜の浜辺には、凌玖と私の2人だけ。聞こえてくるのは波の音のみ。凌玖が私の前を歩き、その後ろを私が付いて歩いている。特に目的も無く、話すこともせず、ただ凌玖の後ろ姿を見つめながら歩いていた。まだそんなに時間が経っていないだろうけれど、この妙な沈黙が時間の感覚を狂わせている。もう長い事こうやって歩いているかのようだ。
その時、急にぶるっと身震いを感じた。5月の夜の海風は肌寒い。おまけに今の服装はドレスだ。尚の事寒く感じる。
少しでも紛らわせられればと腕を摩っていると、ふわりと暖かい物に包まれた。
視線を上げると目の前に無表情の凌玖の顔があり、自分のスーツの上着を肩へと掛けてくれていた。
「寒いんだろ。それ着てろ」
ぶっきら棒に言うと、凌玖は再び前を向いて歩き始めた。
「…ありがとう」
私も小さくお礼を言って彼の後ろを再びついて歩いた。
「…さっきの、ことだけど…」
凌玖は前を向いたまま話し始めた。
「…悪かった。お前に怒ってるとかじゃねぇから…」
表情は見えないけれど、声だけで分かる。
いつもの凌玖だ。
私はその声にホッとして、「うん」と答えた。
「…なんか、俺もよく分からねぇんだ。どうしてあんなにイライラしていたのか…。理由が分からないって事にも更にイライラして、お前に当たるようなことして…本当に悪かった」
そう話す凌玖の背中を私は黙って見つめていた。
見つめながら、私はある衝動に駆られた。
――彼に、触れたい。
私は手を伸ばし、凌玖の背中の服を小さく掴んだ。
それに驚いたのか、凌玖は顔をこちらに向けてきたが、私はそのまま凌玖の顔を見上げた。
「…もう、分かったから…」
この気持ちをどう表現すればいいのだろうか。
心が締め付けられるようで、切なくて、何だか泣きそうになった。
怒っていないと言われて安心したからなのか、久しぶりに目を合わすことができた嬉しさからなのか。
何と言えば良いのか、どういう顔をすればいいのか分からないけれど。
――凌玖に触れたい。
――凌玖と話したい。
――もっと凌玖の瞳を見ていたい。
そんな気持ちばかりがこの海と同じように、私の心にどんどん打ち寄せてくる。
凌玖はしばらく私の顔を見つめていたが、急に体ごと私に向け、背中を掴んでいた私の手は、今度は凌玖に掴まれていた。
「…お前、何て顔してんだよ…」
「え…?」
凌玖の言っている意味を理解出来ないでいる私に、凌玖は頬に手を添えてきた。冷たくなった頬から凌玖の温かな体温がじんわりと身体中に広がっていく。
「…そんな、物欲しそうな顔してんじゃねぇよ…。男は勘違いするぞ」
「勘違いって…」
「…キスしてほしいのか…ってな」
そう言うと、凌玖の顔が近付いてきた。
「え…!?ちょっ…待っ…」
逃れようとしても、凌玖の手が私を掴んでいて逃げることができない。
そうこうしているうちに、凌玖の真剣な表情が目の前に近付いてきた。
私は咄嗟にギュッと瞳を閉じた。
「いった…」
しかし、おでこに鈍い痛みを感じて、私は目を開いた。
そこにはニヤリと笑みを浮かべている凌玖の表情があった。
「なに焦ってんだよ、バーカ」
私は何をされたのか理解できず、最初は目を瞬かせていたが、デコピンをされたのだということが分かった。
「男にあんな隙与えるんじゃねぇ。次は本当に何かされるかもしれねぇからな」
「な…ヒドイ…!あんなふうにからなうなんて!」
「お前に危機感ってやつを教えてやったんだよ。良かったな。相手が紳士な俺様で」
そう言うと、凌玖は私の横を通り過ぎ、元来た方向へと進んでいった。
「これ以上寒くなる前にさっさと戻るぞ」
背中を向けたまま歩く凌玖を、私は再び追いかけるように歩いた。
からかわれたことに腹を立てているのも事実だが、それよりも胸のドキドキの方が大きい。
顔も熱く感じていて、きっと赤くなっていることが分かる。
別荘に帰るまでにこの海風で少しでもこの熱が冷めてくれるようにと思いながら、凌玖の後ろを歩いた。
手洗い場の鏡に映る自分に向かって、私はニコリと笑顔を作ってみる。
(…大丈夫、だよね)
少しぎこちないかもしれないが、ちゃんと笑えている。
心の中に広がっていた感情のせいで、さっきまではきっと笑うこともできていなかっただろう。
でも、椎名君が話を聞いてくれたお陰で幾分か楽になった。
(…ずっと暗い顔をしていたら、みんなにも心配かけちゃうからね)
そう自分に言い聞かせてまだ少し心の中に残るわだかまりに気付かない振りをしつつ、私はお手洗いから出て会場へと戻ろうとした。
しかし、その途中で壁に寄りかかりながら腕を組んでいる凌玖の姿があった。
何をしているのか疑問に思ったが、私が声をかけるより早く凌玖が私に気付いた。
「…よう」
「…どうしたの?こんな所で」
「お前を待ってた」
「え…?」
予想していない答えが返ってきて、私は驚いた。
「どうして?」と聞く前に、凌玖は私の方へ近付いてきた。目の前に立つ凌玖は冷たい視線で私を見下ろしている。そんな凌玖の雰囲気に、私は少し恐怖を感じた。
「…さっき、椎名と何話してた?」
「え…椎名君と…?」
「さっき椎名とバルコニーで楽しそうに話していただろ?何話してたんだよ?」
その言葉に、私は先程の椎名君との会話を思い出した。
凌玖の事を相談していたなんて、本人には恥ずかしくて言う事ができず、私は凌玖から視線を逸らした。
「べ、別に何も…」
そう言った直後、凌玖は私の顎を掴み、無理矢理顔を上へと上げた。
「嘘つくんじゃねぇよ」
冷たく放たれた言葉に、私はビクリと肩が跳ねるのが分かった。
怖くて逃げ出したいという気持ちもあるのに、凌玖の碧い瞳が私を捉えて動くことができない。
「…ムカつくんだよ。お前と椎名が楽しそうに話している所を見るだけで…イライラする」
「…ど、して…?」
私は動かない思考で半分無意識に言葉を発した。
その言葉に、凌玖は何故かハッとしたように目を開き、私から手を離した。
「…悪い。何でもねぇ」
凌玖は私から視線を逸らしながら小さく呟くようにと、パーティー会場がある方向へと向かって行った。
凌玖がその場から離れると、私は力が抜けたようにふらりとヨロめき、近くの壁に手をついて倒れるのを防いだ。
凌玖がどうしてそんな事を聞いてきたのか考えようとしても、うまく頭が動かない。
ただ、鼓動だけがドキドキと早鐘を打っていることだけは分かった。
その後、自分の気持ちが落ち着いた頃に、私はパーティー会場の中へと戻った。
会場の中へ入ってすぐに私は辺りをを見渡して凌玖の姿を探したが、凌玖の姿は見当たらない。
どこに行ったのかと疑問もあるが、正直今はホッとしている自分がいた。先程の件もあり、凌玖とは顔を合わせづらかった。
「…かなちゃん?」
急に呼ばれた声に一瞬驚きつつ視線を向けると、顔を傾げている紫央君がいた。
「どうしたの?」
「あ…ううん。凌玖の姿が見えないなぁ~って思って…」
「りっ君ならさっき…」
そう言った紫央君は何故か途中で言葉を止め、私の顔をじっと見つめてきた。
「…紫央君?」
「…ううん、何でもない!りっ君ならさっき用事があるって会場から出て行ったよ」
「…そう」
「りっ君と何かあったの?」
「え…!?」
そう聞いてきた紫央君の言葉に、私はあからさまに変な反応をしてしまった。これでは「何かあった」と言っているようなものだ。
それは紫央君にも分かったようで、「やっぱりね」と言われた。その言葉に私も観念して、言葉を続けた。
「…何かあったというわけではないんだけど…」
「ケンカでもしたの?」
「ケンカ…じゃないんだけど…。凌玖が、怒ってるみたいで…」
「怒る?りっ君がかなちゃんの事を?」
「…椎名君と何を話していたんだって聞かれて…。凌玖は私と椎名君が話しているのを見るとイライラするって…。理由も教えてもらえなかったけど…」
先程の出来事を簡潔に紫央君に話すと、紫央君は少し考える素振りを見せた。
「ん~…恭ちゃんの事もあるからあんまり口出しするのは良くないと思うんだけど…仕方ないか」
ボソリと呟くように話した紫央君の言葉を私は聞き取れず、聞き返そうとしたが、その前に紫央君は私に笑顔を向けた。
「ねぇ、かなちゃん!りっ君が怒ってる理由、教えてあげようか!」
「え…?う、うん」
「でもここじゃ教えられないから、これから浜辺に行こう!」
「浜辺に?どうして?」
「良いから!俺は後から行くから、かなちゃんは先に行って待っててくれる?」
どうして紫央君がそう言い出したのか分からなかったが、紫央君の勢いに圧倒されつつ、私はつい頷いてしまった。
そして、「絶対浜辺に行ってね!」と念押しする紫央君を背に、私は会場を後にした。
紫央君に言われた通り、私は近くの浜辺へとやって来た。
夜の海は暗く、冷たい印象を受けるが、空に浮かぶ月の光が水面に反射して輝いていることもあり、そこまで暗さは感じられない。それどころか、打ち寄せては引いていく波の心地よい音を聞いているだけで、気持ちが落ち着いていくのを感じる。
そんな波の音に耳を傾けていると、砂浜を歩く足音が聞こえた。
紫央君が来たのかと音がした方へ視線を向けると、そこには思いもしなかった人物が立っていた。
「…凌、玖…?」
「奏…?」
凌玖も私の姿に驚いた表情を見せていたが、バツが悪そうにすぐに視線を逸らされた。
「…何で、いるんだよ…?」
「紫央君と待ち合わせしてて…」
「はぁ?紫央と?何でこんな所で?」
「そ、それは…」
凌玖の事を相談していたとは言えず、つい口篭ってしまった。
しかし、そんな私の様子を見ると何かを察したのか、ハァ~と大きく息を吐いた。
「あ~…良いや。何となく予想がついた。…ったく、あいつは変な所で勘が良いというか…」
凌玖の言葉の意味が理解出来なくて私は首を傾げていたが、「こっちの話だから気にするな」と尋ねることも遮られた。
その後はお互いどこか気まずさもあるせいか視線を逸らしたまま黙ってしまった。
(…尚更気まずい…)
何か話そうにも言葉が出てこず、この場から離れようにも何と言って離れれば良いのか分からない。
「…少し、歩くか」
そんな空気の中、小さく放たれた凌玖の声が私の耳へと届いた。顔を上げると、まだ気まずそうな表情をしている凌玖と視線が絡む。
一瞬戸惑いもしたが、私は小さく頷いた。
誰もいない夜の浜辺には、凌玖と私の2人だけ。聞こえてくるのは波の音のみ。凌玖が私の前を歩き、その後ろを私が付いて歩いている。特に目的も無く、話すこともせず、ただ凌玖の後ろ姿を見つめながら歩いていた。まだそんなに時間が経っていないだろうけれど、この妙な沈黙が時間の感覚を狂わせている。もう長い事こうやって歩いているかのようだ。
その時、急にぶるっと身震いを感じた。5月の夜の海風は肌寒い。おまけに今の服装はドレスだ。尚の事寒く感じる。
少しでも紛らわせられればと腕を摩っていると、ふわりと暖かい物に包まれた。
視線を上げると目の前に無表情の凌玖の顔があり、自分のスーツの上着を肩へと掛けてくれていた。
「寒いんだろ。それ着てろ」
ぶっきら棒に言うと、凌玖は再び前を向いて歩き始めた。
「…ありがとう」
私も小さくお礼を言って彼の後ろを再びついて歩いた。
「…さっきの、ことだけど…」
凌玖は前を向いたまま話し始めた。
「…悪かった。お前に怒ってるとかじゃねぇから…」
表情は見えないけれど、声だけで分かる。
いつもの凌玖だ。
私はその声にホッとして、「うん」と答えた。
「…なんか、俺もよく分からねぇんだ。どうしてあんなにイライラしていたのか…。理由が分からないって事にも更にイライラして、お前に当たるようなことして…本当に悪かった」
そう話す凌玖の背中を私は黙って見つめていた。
見つめながら、私はある衝動に駆られた。
――彼に、触れたい。
私は手を伸ばし、凌玖の背中の服を小さく掴んだ。
それに驚いたのか、凌玖は顔をこちらに向けてきたが、私はそのまま凌玖の顔を見上げた。
「…もう、分かったから…」
この気持ちをどう表現すればいいのだろうか。
心が締め付けられるようで、切なくて、何だか泣きそうになった。
怒っていないと言われて安心したからなのか、久しぶりに目を合わすことができた嬉しさからなのか。
何と言えば良いのか、どういう顔をすればいいのか分からないけれど。
――凌玖に触れたい。
――凌玖と話したい。
――もっと凌玖の瞳を見ていたい。
そんな気持ちばかりがこの海と同じように、私の心にどんどん打ち寄せてくる。
凌玖はしばらく私の顔を見つめていたが、急に体ごと私に向け、背中を掴んでいた私の手は、今度は凌玖に掴まれていた。
「…お前、何て顔してんだよ…」
「え…?」
凌玖の言っている意味を理解出来ないでいる私に、凌玖は頬に手を添えてきた。冷たくなった頬から凌玖の温かな体温がじんわりと身体中に広がっていく。
「…そんな、物欲しそうな顔してんじゃねぇよ…。男は勘違いするぞ」
「勘違いって…」
「…キスしてほしいのか…ってな」
そう言うと、凌玖の顔が近付いてきた。
「え…!?ちょっ…待っ…」
逃れようとしても、凌玖の手が私を掴んでいて逃げることができない。
そうこうしているうちに、凌玖の真剣な表情が目の前に近付いてきた。
私は咄嗟にギュッと瞳を閉じた。
「いった…」
しかし、おでこに鈍い痛みを感じて、私は目を開いた。
そこにはニヤリと笑みを浮かべている凌玖の表情があった。
「なに焦ってんだよ、バーカ」
私は何をされたのか理解できず、最初は目を瞬かせていたが、デコピンをされたのだということが分かった。
「男にあんな隙与えるんじゃねぇ。次は本当に何かされるかもしれねぇからな」
「な…ヒドイ…!あんなふうにからなうなんて!」
「お前に危機感ってやつを教えてやったんだよ。良かったな。相手が紳士な俺様で」
そう言うと、凌玖は私の横を通り過ぎ、元来た方向へと進んでいった。
「これ以上寒くなる前にさっさと戻るぞ」
背中を向けたまま歩く凌玖を、私は再び追いかけるように歩いた。
からかわれたことに腹を立てているのも事実だが、それよりも胸のドキドキの方が大きい。
顔も熱く感じていて、きっと赤くなっていることが分かる。
別荘に帰るまでにこの海風で少しでもこの熱が冷めてくれるようにと思いながら、凌玖の後ろを歩いた。