音にのせて
第6話 過去の鍵
柊木野学園に来て1週間が過ぎた。
転校当初にあった嫌がらせも、冷たい視線を向けられることはあるが、直接手をかけられることは無くなった。
それはきっと、凌玖君が助けてくれたおかげだろう。
そして、ここしばらく考えることは、凌玖君のことばかり。
“…人間は自己中心的な生き物だ。自分のためなら相手を傷付けることも、嘘を付くことも平気でする。それなら誰も信用せず、自らの力で生きていくしかない”
あの時の凌玖君の言葉と、冷たく悲しい瞳が頭から離れない。
そして、それと同時に思い浮かぶのは、紫央君の言葉。
“…知ってどうするの?”
どうして私は、こんなに凌玖君のことを知りたいと思っているのだろうか。
紫央君に言われた言葉の答えが、未だに私の中で見つかっていない。
そんなある日の昼休み、私は音楽室の前に来た。
手には薄い1冊の本を抱えている。
私は音楽室の扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。
柊木野学園の音楽室は、まるで小さな音楽ホールのようだ。椅子と机が半円状に並び、1段1段が段差になっていて、どこの席からでも中央部分がしっかりと見えるようになっている。
そして、中央にはグランドピアノが1台置かれている。
私はグランドピアノへゆっくりと進み、ピアノを覆っている黒い布を少し捲り上げ、鍵盤の蓋を開けた。そこには、白と黒の鍵盤が綺麗に並んでいる。
私は鍵盤の上に指を一本置き、軽く力を入れて押した。綺麗な音が音楽室に響き、それだけで心が癒されるようだった。
「…久しぶりだな」
私はゆっくりと椅子を引いて腰を下ろすと、楽譜立てを起こし、手に持っていた本を乗せる。
所々ボロボロになっているが、私にとってはとても大切な物。
「愛の挨拶」の楽譜。
私は小さく深呼吸をすると、ゆっくりと手を鍵盤に運び、ピアノを弾き始めた。
静かな音楽室には私が奏でる「愛の挨拶」の曲が響き渡る。
そして、私はピアノを弾きながら過去の記憶を思い出していた。いつも思い出すことは一緒。教会で楽しそうにピアノを奏でる一人の女性。こうやってピアノを弾いていると、彼女の笑顔が蘇る。優しくて、暖かい陽だまりのようなその笑顔が、私はとても大好きだった。
彼女の綺麗な碧い瞳も…。
その時、音楽室の扉が開く音が聞こえた。
私は驚いて手を止め、ドアの方へ視線を向けると、そこには凌玖君がいた。
「お前…だったのか…」
凌玖君は一言そう呟くと、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
少し驚いたような表情を浮かべている凌玖君の雰囲気は、いつもと違うように感じた。
「もう一度弾け」
ピアノの近くにあるイスに腰を下ろすと、凌玖君はそう私に告げた。
「え?」
「今の曲をもう一度弾けって言ってんだ」
訳が分からない状態だったが、私はとりあえず彼の言う通り再びピアノを弾き始めた。
凌玖君は瞳を閉じ、私の奏でるピアノの音に黙って耳を傾けていた。
私が曲を弾き終わって凌玖君を見ると、彼は未だに瞳を閉じたままだった。
「凌玖…君?」
私は躊躇いがちに声を掛けると、凌玖君はゆっくりと瞳を開けた。
「…この曲…良い曲だな」
小さく呟かれた凌玖君の言葉。
そう言った凌玖君の表情は、笑っていた。
今まで見たことがないような、彼の本当の笑顔。柔らかく、どこか大人びたように笑う彼の表情に、私はつい見惚れてしまった。
「お前、ピアノ弾けたんだな」
しかし、急に向けられた瞳に、私は見惚れていたことが恥ずかしくなって視線を逸らした。
「う、うん…。昔、少しだけ教えてもらったから」
「…そうか」
凌玖君はそう短く答え、再び瞳を閉じた。
「…不思議だ」
少しの沈黙の後、凌玖君はゆっくりと瞳を開けて、ぽつりと呟いた。
「この曲を聞くと、懐かしく感じる」
「…好きな曲なの?」
私がそう尋ねると、彼はゆっくりと視線を私へと向けた。
「…そうだな」
真っ直ぐ向けられた彼のふわりと笑った笑顔。
窓から差し込み光が凌玖君の碧い瞳を照らし、キラキラと輝いて見えた。
何より、他人とはいつも距離を置き、自分の感情は表に出さない凌玖君が、素直に言葉にして伝えていることが珍しかった。
「…知りたい」
無意識に私の口から出た言葉。
凌玖君は少し怪訝そうな表情を浮かべていたが、私は構わず続けた。
「凌玖君のこと、もっと知りたい。今みたいに、凌玖君が想っていること、何でもいいの」
“…知ってどうするの?”
紫央君に聞かれた質問の答えが、私の中で出たような気がする。
興味本位なんかじゃない。私は、凌玖君を闇から救ってあげたい。
私がどうにかできることでは無いのかもしれない。それでも、力になりたい。
今みたいに、凌玖君を笑顔にしたい。
「私は…」
――凌玖君を、助けたい。
強い想いを込め、私は真っ直ぐ凌玖君の瞳を見つめた。
碧い瞳は不安そうに少し揺らいでいるように感じる。
その時、再び音楽室の扉が開く音が聞こえ、私達は入り口の方へと視線を向けた。
そこには、血相を変えたような顔をした椎名君と、どこか悲しそうな表情を浮かべている紫央君が立っていた。
「お前ら…何の用だ?」
しかし、椎名君は凌玖君の言葉には答えず、無言で音楽室の中へと入ってくると、私の腕を掴んだ。
「…悪い、西園寺。こいつちょっと借りていくぞ」
急にそんなことを言われ、私は戸惑いつつ椎名君と凌玖君を交互に見た。
「…勝手にしろ」
一瞬何かを言いたそうにしていた凌玖君だったが、その言葉を飲み込むように視線を逸らした。
「そういうことだ。ちょっと来い」
凌玖君の言葉を聞くと椎名君は半ば強引に私をイスから立たせると、そのまま引っ張って音楽室を出た。
その後ろからは紫央君も追って来る。
私は屋上へと続く階段の踊り場まで連れて行かれた。
屋上への立ち入りは禁止されているため、ここに来る生徒はほとんどいない。
「お前、一体どういうつもりだ!」
踊り場に着くや否や、椎名君は凄い形相で怒鳴った。
「恭ちゃん!急に怒鳴ってもかなちゃんには分からないでしょ!」
紫央君が間に割って入ると、椎名君は軽く舌打ちした。
「ごめんね、かなちゃん。怖かった?」
紫央君は心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「あの…私、何かした?」
私は恐る恐る2人に尋ねた。
一瞬、2人は顔を伏せてしまったが、意を決したように紫央君が顔を上げた。
その表情は、どこか辛そうに笑っていた。
「かなちゃん、ピアノ弾けたんだね」
「う、うん…」
「俺ね、音楽室に入っていくりっ君を見たんだ。その後、『愛の挨拶』が聞こえてきて…。俺、慌てて恭ちゃんを呼びに行ったんだ…」
そう言った紫央君は、だんだんと視線を落としていった。
「何か…問題があるの?」
「問題ありまくりだよ」
再び椎名君が険しい表情で私に言った。
「お前、何で西園寺にあの曲聞かせたんだよっ!」
「恭ちゃん!」
紫央君の制止の言葉も聞かず、椎名君は言葉を続けた。
「あいつには…西園寺にはあの曲はダメなんだよ!あの曲を聴かせたら、もしかしたら…」
そこまで言うと、椎名君はハッとしたように我に返り、バツが悪そうに口を閉じた。
「どうしてダメなの?あの曲は、凌玖君と何か関係があるの?」
「…かなちゃん、前にも言ったでしょ?興味本位でりっ君の過去を知ろうとしないでほしいって」
「興味本位じゃない!」
気付いたら、私は紫央君の言葉に声を荒らげていた。
「私は、凌玖君を助けたい!凌玖君に笑ってほしいの!」
さっきみたいな笑顔を見たい。
悲しそうな表情をさせたくない。
「…その為に過去で何かあったんだったら、私は知りたい」
私の言葉に、再び2人は目を伏せた。
「…それはできねぇ」
「どうして?凌玖君辛そうなのに、どうして誰も助けてあげようとしないの?」
「これが精一杯なんだよ!」
そう言った椎名君の表情は、とても辛そうだった。
「俺達にできることは、西園寺を見守っていくこと。それが、西園寺にとっても一番良い事なんだ」
「そんなの間違ってるよ!」
「いい加減にしろっ!」
椎名君はそう怒鳴ると同時に、横の壁を殴った。
私はその剣幕にビクリと肩を震わせた。
「お前が、どうこう出来ることじゃねぇんだ…!これ以上、あいつには関わるなっ!」
真っ直ぐと向けられた椎名君の瞳には、何故か怒りではなく悲しさを滲ませていた。
紫央君も顔を伏せつつも、辛そうな表情をしていた。
転校当初にあった嫌がらせも、冷たい視線を向けられることはあるが、直接手をかけられることは無くなった。
それはきっと、凌玖君が助けてくれたおかげだろう。
そして、ここしばらく考えることは、凌玖君のことばかり。
“…人間は自己中心的な生き物だ。自分のためなら相手を傷付けることも、嘘を付くことも平気でする。それなら誰も信用せず、自らの力で生きていくしかない”
あの時の凌玖君の言葉と、冷たく悲しい瞳が頭から離れない。
そして、それと同時に思い浮かぶのは、紫央君の言葉。
“…知ってどうするの?”
どうして私は、こんなに凌玖君のことを知りたいと思っているのだろうか。
紫央君に言われた言葉の答えが、未だに私の中で見つかっていない。
そんなある日の昼休み、私は音楽室の前に来た。
手には薄い1冊の本を抱えている。
私は音楽室の扉に手をかけ、ゆっくりと開けた。
柊木野学園の音楽室は、まるで小さな音楽ホールのようだ。椅子と机が半円状に並び、1段1段が段差になっていて、どこの席からでも中央部分がしっかりと見えるようになっている。
そして、中央にはグランドピアノが1台置かれている。
私はグランドピアノへゆっくりと進み、ピアノを覆っている黒い布を少し捲り上げ、鍵盤の蓋を開けた。そこには、白と黒の鍵盤が綺麗に並んでいる。
私は鍵盤の上に指を一本置き、軽く力を入れて押した。綺麗な音が音楽室に響き、それだけで心が癒されるようだった。
「…久しぶりだな」
私はゆっくりと椅子を引いて腰を下ろすと、楽譜立てを起こし、手に持っていた本を乗せる。
所々ボロボロになっているが、私にとってはとても大切な物。
「愛の挨拶」の楽譜。
私は小さく深呼吸をすると、ゆっくりと手を鍵盤に運び、ピアノを弾き始めた。
静かな音楽室には私が奏でる「愛の挨拶」の曲が響き渡る。
そして、私はピアノを弾きながら過去の記憶を思い出していた。いつも思い出すことは一緒。教会で楽しそうにピアノを奏でる一人の女性。こうやってピアノを弾いていると、彼女の笑顔が蘇る。優しくて、暖かい陽だまりのようなその笑顔が、私はとても大好きだった。
彼女の綺麗な碧い瞳も…。
その時、音楽室の扉が開く音が聞こえた。
私は驚いて手を止め、ドアの方へ視線を向けると、そこには凌玖君がいた。
「お前…だったのか…」
凌玖君は一言そう呟くと、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。
少し驚いたような表情を浮かべている凌玖君の雰囲気は、いつもと違うように感じた。
「もう一度弾け」
ピアノの近くにあるイスに腰を下ろすと、凌玖君はそう私に告げた。
「え?」
「今の曲をもう一度弾けって言ってんだ」
訳が分からない状態だったが、私はとりあえず彼の言う通り再びピアノを弾き始めた。
凌玖君は瞳を閉じ、私の奏でるピアノの音に黙って耳を傾けていた。
私が曲を弾き終わって凌玖君を見ると、彼は未だに瞳を閉じたままだった。
「凌玖…君?」
私は躊躇いがちに声を掛けると、凌玖君はゆっくりと瞳を開けた。
「…この曲…良い曲だな」
小さく呟かれた凌玖君の言葉。
そう言った凌玖君の表情は、笑っていた。
今まで見たことがないような、彼の本当の笑顔。柔らかく、どこか大人びたように笑う彼の表情に、私はつい見惚れてしまった。
「お前、ピアノ弾けたんだな」
しかし、急に向けられた瞳に、私は見惚れていたことが恥ずかしくなって視線を逸らした。
「う、うん…。昔、少しだけ教えてもらったから」
「…そうか」
凌玖君はそう短く答え、再び瞳を閉じた。
「…不思議だ」
少しの沈黙の後、凌玖君はゆっくりと瞳を開けて、ぽつりと呟いた。
「この曲を聞くと、懐かしく感じる」
「…好きな曲なの?」
私がそう尋ねると、彼はゆっくりと視線を私へと向けた。
「…そうだな」
真っ直ぐ向けられた彼のふわりと笑った笑顔。
窓から差し込み光が凌玖君の碧い瞳を照らし、キラキラと輝いて見えた。
何より、他人とはいつも距離を置き、自分の感情は表に出さない凌玖君が、素直に言葉にして伝えていることが珍しかった。
「…知りたい」
無意識に私の口から出た言葉。
凌玖君は少し怪訝そうな表情を浮かべていたが、私は構わず続けた。
「凌玖君のこと、もっと知りたい。今みたいに、凌玖君が想っていること、何でもいいの」
“…知ってどうするの?”
紫央君に聞かれた質問の答えが、私の中で出たような気がする。
興味本位なんかじゃない。私は、凌玖君を闇から救ってあげたい。
私がどうにかできることでは無いのかもしれない。それでも、力になりたい。
今みたいに、凌玖君を笑顔にしたい。
「私は…」
――凌玖君を、助けたい。
強い想いを込め、私は真っ直ぐ凌玖君の瞳を見つめた。
碧い瞳は不安そうに少し揺らいでいるように感じる。
その時、再び音楽室の扉が開く音が聞こえ、私達は入り口の方へと視線を向けた。
そこには、血相を変えたような顔をした椎名君と、どこか悲しそうな表情を浮かべている紫央君が立っていた。
「お前ら…何の用だ?」
しかし、椎名君は凌玖君の言葉には答えず、無言で音楽室の中へと入ってくると、私の腕を掴んだ。
「…悪い、西園寺。こいつちょっと借りていくぞ」
急にそんなことを言われ、私は戸惑いつつ椎名君と凌玖君を交互に見た。
「…勝手にしろ」
一瞬何かを言いたそうにしていた凌玖君だったが、その言葉を飲み込むように視線を逸らした。
「そういうことだ。ちょっと来い」
凌玖君の言葉を聞くと椎名君は半ば強引に私をイスから立たせると、そのまま引っ張って音楽室を出た。
その後ろからは紫央君も追って来る。
私は屋上へと続く階段の踊り場まで連れて行かれた。
屋上への立ち入りは禁止されているため、ここに来る生徒はほとんどいない。
「お前、一体どういうつもりだ!」
踊り場に着くや否や、椎名君は凄い形相で怒鳴った。
「恭ちゃん!急に怒鳴ってもかなちゃんには分からないでしょ!」
紫央君が間に割って入ると、椎名君は軽く舌打ちした。
「ごめんね、かなちゃん。怖かった?」
紫央君は心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「あの…私、何かした?」
私は恐る恐る2人に尋ねた。
一瞬、2人は顔を伏せてしまったが、意を決したように紫央君が顔を上げた。
その表情は、どこか辛そうに笑っていた。
「かなちゃん、ピアノ弾けたんだね」
「う、うん…」
「俺ね、音楽室に入っていくりっ君を見たんだ。その後、『愛の挨拶』が聞こえてきて…。俺、慌てて恭ちゃんを呼びに行ったんだ…」
そう言った紫央君は、だんだんと視線を落としていった。
「何か…問題があるの?」
「問題ありまくりだよ」
再び椎名君が険しい表情で私に言った。
「お前、何で西園寺にあの曲聞かせたんだよっ!」
「恭ちゃん!」
紫央君の制止の言葉も聞かず、椎名君は言葉を続けた。
「あいつには…西園寺にはあの曲はダメなんだよ!あの曲を聴かせたら、もしかしたら…」
そこまで言うと、椎名君はハッとしたように我に返り、バツが悪そうに口を閉じた。
「どうしてダメなの?あの曲は、凌玖君と何か関係があるの?」
「…かなちゃん、前にも言ったでしょ?興味本位でりっ君の過去を知ろうとしないでほしいって」
「興味本位じゃない!」
気付いたら、私は紫央君の言葉に声を荒らげていた。
「私は、凌玖君を助けたい!凌玖君に笑ってほしいの!」
さっきみたいな笑顔を見たい。
悲しそうな表情をさせたくない。
「…その為に過去で何かあったんだったら、私は知りたい」
私の言葉に、再び2人は目を伏せた。
「…それはできねぇ」
「どうして?凌玖君辛そうなのに、どうして誰も助けてあげようとしないの?」
「これが精一杯なんだよ!」
そう言った椎名君の表情は、とても辛そうだった。
「俺達にできることは、西園寺を見守っていくこと。それが、西園寺にとっても一番良い事なんだ」
「そんなの間違ってるよ!」
「いい加減にしろっ!」
椎名君はそう怒鳴ると同時に、横の壁を殴った。
私はその剣幕にビクリと肩を震わせた。
「お前が、どうこう出来ることじゃねぇんだ…!これ以上、あいつには関わるなっ!」
真っ直ぐと向けられた椎名君の瞳には、何故か怒りではなく悲しさを滲ませていた。
紫央君も顔を伏せつつも、辛そうな表情をしていた。