愛人ごっこのはざまで
8.山路さんと個室で食事をした
5時を回ったので、山路さんは食事のためにJRで上野から新橋へ移動しようと言う。駅から徒歩5分のところに店があった。
山路さんは仕事で何回かは使っているので、料理や個室などは分かっていると言っていた。ゆっくり座れる掘りごたつの個室を頼んでおいてくれた。
なるほどここでなら周囲に気遣いなく話ができる。私は個室に入るとほっとした。そしてすぐに化粧室に行って、メガネをはずしてコンタクトに替えた。
「メガネはどうしたの? どこかに忘れた?」
「コンタクトに替えました。この方がいいでしょう」
「確かにきれいな顔がよく見える。せっかくだからメガネはない方がいい」
「メガネは変装用なんです。昔の店の人やお客に声をかけられると山路さんに不快な思いをさせるといけないと思って」
「そんな心配をしてくれていたのか、気にしないよ、そんなこと。それより知らん顔していればいいんだよ」
「あまり人混みに出たくないものそのためなんです」
「でも、髪が短くなって髪形も変わっているし、顔の印象も違っている。あの時とは随分変わっているから、誰も気が付かないんじゃないかな」
「1回か2回くらいのお客なら分からないと思います。私も覚えていないから。でもなじみのお客や店の人には分かると思います。私も顔を覚えていますから」
「神経質になり過ぎじゃないかな、知らん顔でいいじゃないか」
「でも、あなたは私だとすぐに分かったでしょう」
「僕は君のお客の中でも長い方じゃないかな。だから気が付いた。それに君を気に入っていたから、なおさらだ。急にいなくなって随分寂しかった。ぽっかりと心に穴が開いたようだった。きっと思いが募っていたからだと思うけど」
「そう言ってもらえて嬉しいけど、だからなおさらあなたには知らんぷりはできないわ」
「まあ、覚えていてくれて嬉しかったのは本当だ」
「実はあなたのほかにもう一人3軒目のお店まで通ってくれたお客さんがいたんです。少し前になりますが、あなたと同じように偶然店に来たの。やっぱりすぐに私と分かったわ」
「知らんぷりしたの?」
「できる訳ないでしょう。でも彼は迷惑になるならもう来ないと言ってくれました」
「僕は君の迷惑に決してならないし、彼も決して君に迷惑をかけないと思う。僕には分かる」
「分かっています。お二人は本当にお優しい方々ですから。でも、そうじゃない人もいるんです。今のお店に移る前に働いていた店で私の昔のことを知っていて自慢げに言いふらしたお客がいたの、それでそこをやめたの。悲しくて、悲しくて、もう私はこんなところでもまともには働けないのかと思って泣きました」
「男の風上に置けないとんでもない奴だな。優しさというものがない」
「だから、私はお付き合いするのを迷ったんです、あなたに迷惑がかかるといけないと思ったから」
「僕はそんなこと百も承知で付き合ってくれと申し込んだので、迷惑がかかるなんて思わなくていいから」
「私はいつも自分の過去に怯えて生きているの、今日もこの部屋に入るまでは誰かに声をかけられないかとおどおどしていたの」
「どうしてあげたらいいのか分からないけど、仕事も見た目も、もう昔とすっかり違うのだから、自信を持って知らん顔していればいい。気持ちをしっかり持って」
「なぜ、それまでして私のことを思ってくれるのですか」
「君には今まで言わなかったけど、そしてこれを聞いても気分を害さないでほしい。君は僕の亡くなった妻にそっくりなんだ。まるで生き写しなんだ」
「そうだったんですか」
私はそれを聞いて今までのことに納得がいった。
「10年前、僕は突然妻を失った。乳がんが見つかったが手遅れだった。妻とは同級生で学生結婚だった。卒業して就職するとすぐに妻が妊娠して娘が生まれた。僕たちは幸せだった。共働きをしたが、家庭と仕事を両立させて申し分のない妻だった。でも妻は早死にしてしまった」
「いい奥様だったのね」
「彼女にはよいところがいっぱいあったけれど、健康で長生きではなかった。死ぬ直前、あなたの妻になって幸せだったと言ってくれた。それだけが僕の慰めになった。僕は泣いて諦めるほかなかった」
「悲しいけど、諦めるしかないですね」
「その時思った。神様はすべての人に幸せと不幸を平等に与えているのではないだろうかってね。楽しいことをだけでなく悲しいことも、良いところだけでなく悪いところも、必ず両方を与えているんだと。それを定めとして受け入れて、諦めるしかないのだと」
「確かにそうかもしれませんね」
「残された一人娘を男手一つで一生懸命に育てた。そんな生活に疲れていた時に、友人が君のいる店へ気晴らしにと連れて行ってくれた。写真の中に妻に似た女性がいた。それが凜、君だった」
「そんなに亡くなった奥さんに似ていたのですか?」
「一目見て君は妻に生き写しだと分かった。しゃべり方も笑い顔も、それに身体も。だから、君をずっと指名したし、店を替わっても探して通った。そして、君はずっと僕を癒し続けてくれた。突然いなくなって、何と寂しかったことか。僕は妻を二度亡くしたようだった」
「私はあなたの奥さんの代わりだったのですか?」
「そうだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない」
「どういうことですか?」
「逢瀬を重ねるごとに、もちろんだけど、妻とは違うことが分かってきた」
「どんなところですか?」
「Hが好きだし上手だ」
「うふふ、そうかもしれないわ」
「それは冗談だけど、今日も付き合ってみて、妻にはなかった君の新たな面が分かった。だからこれからも交際を続けて君をもっと知りたいと思っている。もう僕は君を妻の代わりとは思っていないし、代わりにしたい気持ちもない」
「私も普通に付き合うってどういうことか興味があって、お付き合いを続けます」
「ありがとう」
個室だったので落ち着いて話ができた。周りを気にすることもなくゆっくり食事ができた。山路さんは車を呼んで私を表参道で下ろしてくれた。私は車を使わないで地下鉄でいいと言ったけれど、今日は和服で目に付くからと言って車で送ってくれた。その心遣いが嬉しかった。
部屋に戻って和服を脱いで片付ける。初めてのデートが終わった。山路さんは私のために随分気を使ってくれた。真面目に交際したいという気持ちが伝わってきた。
年齢が10歳以上は離れていると思うけど、話がかみ合わないことはないし、話を聞いてもらうと気が楽になる。どこか父親に似たところもある。求められたからでもあるけど、交際を受け入れてよかった。私にはもったいない人だ。
山路さんは仕事で何回かは使っているので、料理や個室などは分かっていると言っていた。ゆっくり座れる掘りごたつの個室を頼んでおいてくれた。
なるほどここでなら周囲に気遣いなく話ができる。私は個室に入るとほっとした。そしてすぐに化粧室に行って、メガネをはずしてコンタクトに替えた。
「メガネはどうしたの? どこかに忘れた?」
「コンタクトに替えました。この方がいいでしょう」
「確かにきれいな顔がよく見える。せっかくだからメガネはない方がいい」
「メガネは変装用なんです。昔の店の人やお客に声をかけられると山路さんに不快な思いをさせるといけないと思って」
「そんな心配をしてくれていたのか、気にしないよ、そんなこと。それより知らん顔していればいいんだよ」
「あまり人混みに出たくないものそのためなんです」
「でも、髪が短くなって髪形も変わっているし、顔の印象も違っている。あの時とは随分変わっているから、誰も気が付かないんじゃないかな」
「1回か2回くらいのお客なら分からないと思います。私も覚えていないから。でもなじみのお客や店の人には分かると思います。私も顔を覚えていますから」
「神経質になり過ぎじゃないかな、知らん顔でいいじゃないか」
「でも、あなたは私だとすぐに分かったでしょう」
「僕は君のお客の中でも長い方じゃないかな。だから気が付いた。それに君を気に入っていたから、なおさらだ。急にいなくなって随分寂しかった。ぽっかりと心に穴が開いたようだった。きっと思いが募っていたからだと思うけど」
「そう言ってもらえて嬉しいけど、だからなおさらあなたには知らんぷりはできないわ」
「まあ、覚えていてくれて嬉しかったのは本当だ」
「実はあなたのほかにもう一人3軒目のお店まで通ってくれたお客さんがいたんです。少し前になりますが、あなたと同じように偶然店に来たの。やっぱりすぐに私と分かったわ」
「知らんぷりしたの?」
「できる訳ないでしょう。でも彼は迷惑になるならもう来ないと言ってくれました」
「僕は君の迷惑に決してならないし、彼も決して君に迷惑をかけないと思う。僕には分かる」
「分かっています。お二人は本当にお優しい方々ですから。でも、そうじゃない人もいるんです。今のお店に移る前に働いていた店で私の昔のことを知っていて自慢げに言いふらしたお客がいたの、それでそこをやめたの。悲しくて、悲しくて、もう私はこんなところでもまともには働けないのかと思って泣きました」
「男の風上に置けないとんでもない奴だな。優しさというものがない」
「だから、私はお付き合いするのを迷ったんです、あなたに迷惑がかかるといけないと思ったから」
「僕はそんなこと百も承知で付き合ってくれと申し込んだので、迷惑がかかるなんて思わなくていいから」
「私はいつも自分の過去に怯えて生きているの、今日もこの部屋に入るまでは誰かに声をかけられないかとおどおどしていたの」
「どうしてあげたらいいのか分からないけど、仕事も見た目も、もう昔とすっかり違うのだから、自信を持って知らん顔していればいい。気持ちをしっかり持って」
「なぜ、それまでして私のことを思ってくれるのですか」
「君には今まで言わなかったけど、そしてこれを聞いても気分を害さないでほしい。君は僕の亡くなった妻にそっくりなんだ。まるで生き写しなんだ」
「そうだったんですか」
私はそれを聞いて今までのことに納得がいった。
「10年前、僕は突然妻を失った。乳がんが見つかったが手遅れだった。妻とは同級生で学生結婚だった。卒業して就職するとすぐに妻が妊娠して娘が生まれた。僕たちは幸せだった。共働きをしたが、家庭と仕事を両立させて申し分のない妻だった。でも妻は早死にしてしまった」
「いい奥様だったのね」
「彼女にはよいところがいっぱいあったけれど、健康で長生きではなかった。死ぬ直前、あなたの妻になって幸せだったと言ってくれた。それだけが僕の慰めになった。僕は泣いて諦めるほかなかった」
「悲しいけど、諦めるしかないですね」
「その時思った。神様はすべての人に幸せと不幸を平等に与えているのではないだろうかってね。楽しいことをだけでなく悲しいことも、良いところだけでなく悪いところも、必ず両方を与えているんだと。それを定めとして受け入れて、諦めるしかないのだと」
「確かにそうかもしれませんね」
「残された一人娘を男手一つで一生懸命に育てた。そんな生活に疲れていた時に、友人が君のいる店へ気晴らしにと連れて行ってくれた。写真の中に妻に似た女性がいた。それが凜、君だった」
「そんなに亡くなった奥さんに似ていたのですか?」
「一目見て君は妻に生き写しだと分かった。しゃべり方も笑い顔も、それに身体も。だから、君をずっと指名したし、店を替わっても探して通った。そして、君はずっと僕を癒し続けてくれた。突然いなくなって、何と寂しかったことか。僕は妻を二度亡くしたようだった」
「私はあなたの奥さんの代わりだったのですか?」
「そうだったかもしれないし、そうじゃなかったかもしれない」
「どういうことですか?」
「逢瀬を重ねるごとに、もちろんだけど、妻とは違うことが分かってきた」
「どんなところですか?」
「Hが好きだし上手だ」
「うふふ、そうかもしれないわ」
「それは冗談だけど、今日も付き合ってみて、妻にはなかった君の新たな面が分かった。だからこれからも交際を続けて君をもっと知りたいと思っている。もう僕は君を妻の代わりとは思っていないし、代わりにしたい気持ちもない」
「私も普通に付き合うってどういうことか興味があって、お付き合いを続けます」
「ありがとう」
個室だったので落ち着いて話ができた。周りを気にすることもなくゆっくり食事ができた。山路さんは車を呼んで私を表参道で下ろしてくれた。私は車を使わないで地下鉄でいいと言ったけれど、今日は和服で目に付くからと言って車で送ってくれた。その心遣いが嬉しかった。
部屋に戻って和服を脱いで片付ける。初めてのデートが終わった。山路さんは私のために随分気を使ってくれた。真面目に交際したいという気持ちが伝わってきた。
年齢が10歳以上は離れていると思うけど、話がかみ合わないことはないし、話を聞いてもらうと気が楽になる。どこか父親に似たところもある。求められたからでもあるけど、交際を受け入れてよかった。私にはもったいない人だ。