悪魔の花嫁
露子には母がいない。
 どうして生み捨てられたのか、露子には分からない。
 その寄る辺の無さを満たしてくれたのはこの霜月神社であり、育ててくれた神主様であり、養子縁組をしてくれた義父であり、霜月商店街の皆だ。
 生まれてきてよかったのか、そんな事を考える隙もなく露子は愛された。
 この幸運を与えてくれたのは、この比売神様(ひめがみさま)ということだ。
「生まれてきて良かったであろう?幸せであったろう?」
 柔らかな声は本当の母のようにやさしい。
「はい。私はずっと不幸ではなかった。」
 露子は答える。
「どうだろうか、この世界で我と共に暮らそうではないか。神代(かみよ)の世界は美しいぞ。もう何も悲しむことも、悩むこともない。そなたの体を汚すものもいない。」
「汚す?」
 露子は言い様に驚く。
「あの悪魔に純血を奪われるぐらいなら、我と清浄の地で永幸に暮らそうではないか。
どうじゃ?母が恋しいであろう?ここで幸せに暮らそうではないか。ほら、ごらん、この鏡の向こうを、神代の世界じゃ。美しいであろう?人々の信仰によって清められた誰もが帰りたいと願う世界。老若男女誰もが帰りたいと願う、あの鏡を潜ればそこに行ける。」

 銅鏡には美しい稲穂の波と、山並み。茜色の空が映し出されている。

 露子は母のように優しい声に触れて、そのまま眠りにつきたい気持ちが強くなっている自分に気づいている。
 たとえばそれはもう思い出せないほど昔、何の心配も無く母の腕の中で、乳を吸っていた幼児のころだ。
 母の胎盤の中でゆらゆら揺れていたあの安心感。
 それを今取り戻せる。
 あの日に帰れる。
 そんな郷愁めいた誘惑だ。
 柔らかなまどろみ。
 きっとここで女神様に答えれば永久にそれが手に入る。
 だけど。
 だけど。
だけど。

「でも、私、霜月商店街の皆が好きなの。クラスメイトも、礼子も加悦さんも、神主のおじいさまも、いなくなってしまったけれど、お父様も、みんな大好きなの。だから、こんな誰もいない、ここには居られないわ。」

「あの悪魔はお前を苦しめるぞ? 何せ、あの悪魔は恋なんて知らぬから。お前は片恋に苦しむことになる。」
 女神は少し厳しい様子で嗜める。

「いいの。わたし、十全さんのところに帰りたい。」

「十全さんに会いたい。」

「だってもう、私あの人に恋してしまったから。」

『生きる事を楽しみなさい』


比売神は最後そう言ったと思う。




     ¥




 目を開けるとそこは知らない天井、もとい、学校の保健室であった。
 夢?
 露子はゆっくりと身を起こす。
 すると途端に、横から礼子が抱きついて来た。
 勢い良く飛びついてきたので「ぎゃ」なんて、淑女にあるまじき変な声が出た。
「露子さん、あなた大丈夫なの?私、心配で、心配で胸が張り裂けそうだったわ。」
「ええっと、何かあったかしら。」
「貴方祭事の途中で神隠しに遭ったのよ!」
 礼子は涙で顔がぐちゃぐちゃだ。
「神隠し?」
 露子は驚く。
「祭事が終わる頃、急に姿が見えなくなって、学校中を皆で探したけれど、何処にもいなかったもの。だって、テントは校庭の中央にあったし、あなた目立つ巫女衣装だった、抜け出す所なんてないのよ。抜け出すにしても、攫われるにしても、誰かが見ていないとおかしいわ。なのに、急に消えてしまって。」
 礼子の涙は本物だ。
 露子はなんだか胸が痛い。
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