悪魔の花嫁
十全はしたり顔で頷く。
「悪魔だからね。そう、例えば、ライオンに食われるガゼルは哀れだけど、だからといってライオンから食肉を奪うの?ライオンがカゼルの命を奪うのが罪かい?」
露子は何も言えない。
「わからないわ。」
露子は難しい命題はわからない、ただ、悪魔に飲み込まれるのが恐ろしいのだ。
この男の口八丁に露子はどうしても勝てない。
「わたし、このままでいいのかな。だんだん分からなくなっていくの。まるで魂がなくなるみたいよ。」
十全は優しく微笑む。
「ああ、君って本当、綺麗な魂を持っているんだね。神様に愛されて生まれるっていうのは君みたいな子を指すんだろうなあ。大丈夫、君の魂は少しも欠けはしない。」
十全は腕を広げて露子を抱きしめる。
露子はあっと云う間に十全の胸の中だ。
「ひゃっ」
露子は固まってしまう。
「汚れなき乙女。君は僕の妻にふさわしい。悪魔の花嫁よ。」
露子は意外にも逞しい腕の力に驚く。
暖かい腕の中で動く事も息をする事もできない。
十全からはいつも森みたいな匂いがする。
異国の男性らしく、コロンでもつけているのかもしれない。
露子は実はこの匂いを気に入っているのだけど。
「僕が怖いのだね。だからそんな悲しい事をいう。そして自分がわからなくなったような気がするんだ。大丈夫だよ。僕は君を傷つけたりしない。大事に。大事にしてあげる。」
悪魔の誘惑である。
柔らかな物言いに露子は心が揺らぐ。
「悪魔だから、そんな台詞が平気で吐けるの?」
露子はごまかしにかかる。
それでも、十全は体を離してくれない。
「露子ちゃん。君はなんにも心配しなくていい。僕が守ってあげる。だから、一緒に仕事しよう!それで、いつか世界征服でもしようよ。」
十全はにっこり笑顔だ。
「なんで世界征服するんですか。もういいですよ。もう肉じゃが焦げちゃうから離してください。」
十全はしぶしぶといった態度で体を離す。
これから二人で夕飯を取るのだ。
¥
霜月商店街町内には人間の取り組む霜月商店街振興会(しもつきしょうてんがいしんこうかい)と古くからある日本妖怪の霜月商工会があり、一見普通の商店街に見えるが、角の質屋をはじめ、タバコ屋のおばあさんも下駄屋さんも、年中閉店しない閉店セール中の衣料品店も店主は妖怪である。
彼らは戦後五十年、手に手を取り合って、時には対立をし、時には手を組み霜月神社を中心として神輿を担いできた。
霜月神社は商店街の中心的存在で、つまり霜月商店街は露子たち人間界と妖怪連中のうろつく異界の狭間であり、リンク地点といったところだ。
霜月神社の加護あってか、最近乱立するショッピングセンターや大型スーパーの影響もさほど受けず、この田舎町の中心街であり続けたのである。
だからこそ、彼らの商売人としてのプライドは高い。
霜月商店街にふらりと現れ、突然消費者金融を始めた田中十全のことをよく思わない日本妖怪は多い。
日本妖怪は昔気質な人物が多く、数百年生きているものもわんさかいる訳で、そこらの日本の頑固親父の比ではない。
よそ者、しかも西洋の悪魔である十全は、商売敵の悪徳高利貸(あくとくこうりが)しなのだ。
「大体、あの男がいけ好かねえのは、汚い商売のやり方以前の問題なんだよ!キンキラ着飾りやがってあのキザな喋り方も鼻につくったらねえよ!」
十全をよく思わない、日本妖怪の鈴木加悦(すずきかえつ)は商工会の集まりで毒づく。
「まあまあ、加悦さん、あの人実際そんなに悪い人じゃ無いって。ただねえ、ちょっと癖のある人だと思うよ。けど商工会から閉め出しちゃうのはどうかと思うね、仲間に入れてあげてもいいじゃないか。」
年配の妖怪が加悦をたしなめる。
首から上が狼で首から下は羽織袴(はおりはかま)。
彼は犬神の佐藤である。
「佐藤さん甘いんですよ! そんな事言ってたらどんどんよそ者がやってきて、よそ者に占領されちまうよ。俺たちは、この五十年間この商店街の秩序を守ってきたじゃないか。」
加悦に見方するのは巨大な信楽焼(しがらきやき)の狸である。狸の加藤は商店街で酒屋を営んでいる。
商工会の集まりは毎月十日、老舗中華料理店「赤月楼(こうげつろう)」の二階のお座敷を貸し切って行う。
和風の室内と中華風の細工で、レトロな雰囲気。
八畳の床の間付きの円卓に商工会代表一同は並ぶ。
店主は人間であるが、戦後の混乱期に大陸から引き上げてきた中国人の張(ちょう)さんである。
有象無象の魑魅魍魎を束ねる傑物だ。
「私も移民だからねえ、見知らぬ土地で商売をするのは大変だよ。その気持ちは痛いほどわかるのさ。その、商工会には入れてやって、それとなく商売のやり方を指南してやったらどうだろう。あちらさんも、聞く耳を持たない訳じゃないし。」
張は人間だが、日本妖怪の商工会の一員である。
日本妖怪の集まりは排他的ではあるが、一度懐に入ってしまえば支援厚く、古くからの助け合いの心が息衝いている。
張も人間でありながら、日本妖怪の方に商工会に入ってしまった経緯を思い出し、くすりと笑った。
「駄目駄目だ!あんな奴、虫が好かねえよ。」
加悦は年配の役員に嗜(たしな)められても納得しない。
加悦は鬼である。
もとは商店街入り口の祠(ほこら)に祭られていた祭神(さいじん)であったが、数百年の年月と共に人々に忘れ去られ、零落(れいらく)し、鬼に成った。
ボロボロの祠は今でもあるが、神体も紛失してしまい、神代(かみよ)の名だけはもう思い出せない。
彼がその身を立てるために始めた八百屋も、殿様商売が仇(あだ)となっての経営不振で店を閉める寸前である。
そんなこんなで、とにかく加悦は十全のことが気に食わないのだ。
加悦は赤毛の大男である。
額には鬼らしい一本角が鎮座し、鬼灯のように息づいている。
しかし、商店街の奥様方には大層人気で、銀幕俳優の誰それに似ているとまで言われる美丈夫である。
が、どうにも厳めしい顔つきは最近の流行ではないし、喧嘩っ早く大きい声で、若い女子供には怯えられている。
そんなやっかみもあって十全の柔らかな物腰や、女子供に何故か懐かれる様相に嫉妬しているのであった。
さて、加悦は鬼らしく若い娘が好物である。
今の時代に若い娘を取って食らうといったことはしないが、美しい女に鼻の下を伸ばす程度には鬼の習性を維持している。
そう、加悦の今一番のお気に入りは、如月露子であった。
露子は学校の帰り、たまに加悦の八百屋である鈴木青果店に訪れる。
美しい美少女である彼女を、加悦は特にお気に入りで、彼女を狙う魑魅魍魎(ちみもうりょう)をこっそり退治したこともある。
そもそも彼女は霜月神社の神である天地ノ比売神(あまつちのひめがみ)の加護を得ているのでそこらに跋扈(ばっこ)する魍魎のたぐいは寄り付く事もできないのだが。
もちろん鬼である加悦も彼女に触れる事すらできない。
しかし、その輝く姿、麗しい容貌。
見ているだけで加悦の恋心は膨れ上がる。
そう、手に入らないマドンナ的存在に、露子は彼の中で神格化されているのであった。
それが、先日、露子は、あの西洋悪魔、田中十全の「霜月商店街おひさまローン」でアルバイトを始めた。
なんでも彼女の父親は借金苦で蒸発したあげく、彼女を悪魔の田中十全に売り渡したというではないか!
加悦は怒った。
古(いにしえ)の鬼らしく、可哀想な娘を奪わねばなるまい!と。
「悪魔だからね。そう、例えば、ライオンに食われるガゼルは哀れだけど、だからといってライオンから食肉を奪うの?ライオンがカゼルの命を奪うのが罪かい?」
露子は何も言えない。
「わからないわ。」
露子は難しい命題はわからない、ただ、悪魔に飲み込まれるのが恐ろしいのだ。
この男の口八丁に露子はどうしても勝てない。
「わたし、このままでいいのかな。だんだん分からなくなっていくの。まるで魂がなくなるみたいよ。」
十全は優しく微笑む。
「ああ、君って本当、綺麗な魂を持っているんだね。神様に愛されて生まれるっていうのは君みたいな子を指すんだろうなあ。大丈夫、君の魂は少しも欠けはしない。」
十全は腕を広げて露子を抱きしめる。
露子はあっと云う間に十全の胸の中だ。
「ひゃっ」
露子は固まってしまう。
「汚れなき乙女。君は僕の妻にふさわしい。悪魔の花嫁よ。」
露子は意外にも逞しい腕の力に驚く。
暖かい腕の中で動く事も息をする事もできない。
十全からはいつも森みたいな匂いがする。
異国の男性らしく、コロンでもつけているのかもしれない。
露子は実はこの匂いを気に入っているのだけど。
「僕が怖いのだね。だからそんな悲しい事をいう。そして自分がわからなくなったような気がするんだ。大丈夫だよ。僕は君を傷つけたりしない。大事に。大事にしてあげる。」
悪魔の誘惑である。
柔らかな物言いに露子は心が揺らぐ。
「悪魔だから、そんな台詞が平気で吐けるの?」
露子はごまかしにかかる。
それでも、十全は体を離してくれない。
「露子ちゃん。君はなんにも心配しなくていい。僕が守ってあげる。だから、一緒に仕事しよう!それで、いつか世界征服でもしようよ。」
十全はにっこり笑顔だ。
「なんで世界征服するんですか。もういいですよ。もう肉じゃが焦げちゃうから離してください。」
十全はしぶしぶといった態度で体を離す。
これから二人で夕飯を取るのだ。
¥
霜月商店街町内には人間の取り組む霜月商店街振興会(しもつきしょうてんがいしんこうかい)と古くからある日本妖怪の霜月商工会があり、一見普通の商店街に見えるが、角の質屋をはじめ、タバコ屋のおばあさんも下駄屋さんも、年中閉店しない閉店セール中の衣料品店も店主は妖怪である。
彼らは戦後五十年、手に手を取り合って、時には対立をし、時には手を組み霜月神社を中心として神輿を担いできた。
霜月神社は商店街の中心的存在で、つまり霜月商店街は露子たち人間界と妖怪連中のうろつく異界の狭間であり、リンク地点といったところだ。
霜月神社の加護あってか、最近乱立するショッピングセンターや大型スーパーの影響もさほど受けず、この田舎町の中心街であり続けたのである。
だからこそ、彼らの商売人としてのプライドは高い。
霜月商店街にふらりと現れ、突然消費者金融を始めた田中十全のことをよく思わない日本妖怪は多い。
日本妖怪は昔気質な人物が多く、数百年生きているものもわんさかいる訳で、そこらの日本の頑固親父の比ではない。
よそ者、しかも西洋の悪魔である十全は、商売敵の悪徳高利貸(あくとくこうりが)しなのだ。
「大体、あの男がいけ好かねえのは、汚い商売のやり方以前の問題なんだよ!キンキラ着飾りやがってあのキザな喋り方も鼻につくったらねえよ!」
十全をよく思わない、日本妖怪の鈴木加悦(すずきかえつ)は商工会の集まりで毒づく。
「まあまあ、加悦さん、あの人実際そんなに悪い人じゃ無いって。ただねえ、ちょっと癖のある人だと思うよ。けど商工会から閉め出しちゃうのはどうかと思うね、仲間に入れてあげてもいいじゃないか。」
年配の妖怪が加悦をたしなめる。
首から上が狼で首から下は羽織袴(はおりはかま)。
彼は犬神の佐藤である。
「佐藤さん甘いんですよ! そんな事言ってたらどんどんよそ者がやってきて、よそ者に占領されちまうよ。俺たちは、この五十年間この商店街の秩序を守ってきたじゃないか。」
加悦に見方するのは巨大な信楽焼(しがらきやき)の狸である。狸の加藤は商店街で酒屋を営んでいる。
商工会の集まりは毎月十日、老舗中華料理店「赤月楼(こうげつろう)」の二階のお座敷を貸し切って行う。
和風の室内と中華風の細工で、レトロな雰囲気。
八畳の床の間付きの円卓に商工会代表一同は並ぶ。
店主は人間であるが、戦後の混乱期に大陸から引き上げてきた中国人の張(ちょう)さんである。
有象無象の魑魅魍魎を束ねる傑物だ。
「私も移民だからねえ、見知らぬ土地で商売をするのは大変だよ。その気持ちは痛いほどわかるのさ。その、商工会には入れてやって、それとなく商売のやり方を指南してやったらどうだろう。あちらさんも、聞く耳を持たない訳じゃないし。」
張は人間だが、日本妖怪の商工会の一員である。
日本妖怪の集まりは排他的ではあるが、一度懐に入ってしまえば支援厚く、古くからの助け合いの心が息衝いている。
張も人間でありながら、日本妖怪の方に商工会に入ってしまった経緯を思い出し、くすりと笑った。
「駄目駄目だ!あんな奴、虫が好かねえよ。」
加悦は年配の役員に嗜(たしな)められても納得しない。
加悦は鬼である。
もとは商店街入り口の祠(ほこら)に祭られていた祭神(さいじん)であったが、数百年の年月と共に人々に忘れ去られ、零落(れいらく)し、鬼に成った。
ボロボロの祠は今でもあるが、神体も紛失してしまい、神代(かみよ)の名だけはもう思い出せない。
彼がその身を立てるために始めた八百屋も、殿様商売が仇(あだ)となっての経営不振で店を閉める寸前である。
そんなこんなで、とにかく加悦は十全のことが気に食わないのだ。
加悦は赤毛の大男である。
額には鬼らしい一本角が鎮座し、鬼灯のように息づいている。
しかし、商店街の奥様方には大層人気で、銀幕俳優の誰それに似ているとまで言われる美丈夫である。
が、どうにも厳めしい顔つきは最近の流行ではないし、喧嘩っ早く大きい声で、若い女子供には怯えられている。
そんなやっかみもあって十全の柔らかな物腰や、女子供に何故か懐かれる様相に嫉妬しているのであった。
さて、加悦は鬼らしく若い娘が好物である。
今の時代に若い娘を取って食らうといったことはしないが、美しい女に鼻の下を伸ばす程度には鬼の習性を維持している。
そう、加悦の今一番のお気に入りは、如月露子であった。
露子は学校の帰り、たまに加悦の八百屋である鈴木青果店に訪れる。
美しい美少女である彼女を、加悦は特にお気に入りで、彼女を狙う魑魅魍魎(ちみもうりょう)をこっそり退治したこともある。
そもそも彼女は霜月神社の神である天地ノ比売神(あまつちのひめがみ)の加護を得ているのでそこらに跋扈(ばっこ)する魍魎のたぐいは寄り付く事もできないのだが。
もちろん鬼である加悦も彼女に触れる事すらできない。
しかし、その輝く姿、麗しい容貌。
見ているだけで加悦の恋心は膨れ上がる。
そう、手に入らないマドンナ的存在に、露子は彼の中で神格化されているのであった。
それが、先日、露子は、あの西洋悪魔、田中十全の「霜月商店街おひさまローン」でアルバイトを始めた。
なんでも彼女の父親は借金苦で蒸発したあげく、彼女を悪魔の田中十全に売り渡したというではないか!
加悦は怒った。
古(いにしえ)の鬼らしく、可哀想な娘を奪わねばなるまい!と。