悪魔の花嫁
「ああ、もう。ひどい。」
 事務所についた露子はまず洗面所で体を拭くことにする。
 たしか備え付けのタオルが会ったはずだ。
 あわてて室内に入る。
「わあ、どうしたんだい露子ちゃん、ひどい恰好だね。風邪引いちゃうよ。」
 柔らかな声が後ろからかかる。
 十全だ。
「雨に振られたんです。この事務所タオルぐらいありましたよね?」
 露子はいたずらを見つけられた子どものようだ。
「だめだめ、だめだよ!タオルで拭いたぐらいじゃ、マンションに帰ってお風呂に入りなさい。今日は仕事なんていいから!黒服にさせるから!」
 十全は優しい。
「大丈夫です。私って丈夫みたいで、風邪引いた事無いんですから。」
 露子は胸をはる。
「ああ、そんなところまで、守護されてるのか。」
 十全はなんだか肩を落とす。
「でも駄目。女の子がそんな恰好してちゃ。僕は気が気じゃないよ。今日はお客さん来ないし店じまいしよう。今から僕も帰るから、取り合えずこののタオル使って。」
 ペランとした綿のタオルには霜月商店街振興会と青い字で印刷してある。
「あれ、商工会に入れて貰えたんですか?この門前払いされたって言ってませんでしたっけ?」
 露子は安っぽいそのタオルでひとまず髪を拭く。
「ああ、日本妖怪の商工会の方ね。僕は悪魔だけど、この国じゃあ、妖怪のたぐいでしょう?だから挨拶に行ったんだけど、気に入らないって言われちゃって。結局人間の方に行ったんだ。霜月商店街振興会だってさ。不思議な商店街だよね。それに、この町も。あやかしの異界と人間界がこんなに混在して密接してるなんて。西洋じゃあ考えられないよ。やっぱり日本人って思考が大らかなのかなあ。僕の国じゃあ、住むところどころか、簡単に異界と此方の行き来もできないぐらいで、うっかり人間が異界に来ちゃった日にはどんな目に会わされるか。」
 十全はよくわからない愚痴を長々と続ける。
「私、よくわからないです。妖怪もここで働き始めて初めて見たぐらいで。」
 露子は遮るように言う。
「そこにあっても見えないものっていうのはあるんだよ。意識していないだけでね。たとえば僕。目尻に黒子があるんだけど気づいてた?」
「え」
 露子は驚く。
 本当だ。
 よくみると右目の直ぐ下に黒子がある。
 綺麗な顔立ちをしていると思っていたが、黒子なんて気にも止めていなかった。
「こんな風にじゃらじゃら着飾ってるとさ、そっちに目が取られて顔の細かい造作なんて見えなくなっちゃうんだよね。黒子に限らず、あるわけないと思ってるから、見えない。巨大な招き猫がタバコ屋で店番してたって、誰も気にしない。
 毎日タバコ買って、たまに宝くじなんて買っているおばさんだって、わざわざ店番の顔なんて覚えてないし、気にも留めない、目に入らない。僕だって、露子ちゃん大好きだけど、気づいて無い事、多分たくさんあると思う。」
 そんなものだろうか、露子はなんとなく腑に落ちない。
「人間なんて適当な生き物なんだよ。さ、露子ちゃん帰ろう。僕のコート着て。寒いでしょう? それに、下着透けてる。」
 露子は真っ赤になって叫ぶ。
「ちゃんと見てるじゃないですかあ!」



     ¥



 十全のマンションでゆっくりと湯船につかる。
 なんだかいろんなことが起きている気がするが、露子の日常は穏やかだ。
 それはあの十全の飄々とした超然としたキャラクターによるものなのかもしれないし、案外、自分は図太い性格をしているのかもしれない。
 そういえば、生まれてこの方、あまり感情を揺さぶられることはなかった。
 だれかを憎んだこともなければ死にたいほど悲しんだ事も無い。
 露子は平凡に、ただ平穏を生きてきた。

 『生きる事を楽しみなさい』

 五歳まで育ててくれた霜月神社の神主の老爺(ろうや)はそう言った。
 神社の榊の下に捨てられたため、神様の加護を得ているとも。
 露子の人生は割と波瀾万丈であるし、天蓋孤独の身のはずなのに、彼女は悲観することも、誰かと比べて辛い思いをすることも無かった。
 それはとても幸福なことだ。
 露子は思う。
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