恋するような激しさで
彼がひと呼吸した次の瞬間、大きなツリーが目の前にあるのに、クリスマスであることを忘れた。
しばらく見上げることさえしてこなかった夜空が、身体の中を支配していたから。

ドビュッシー『月の光』。
やわらかい光が地上を染め上げるようなうつくしい曲。
指先で肌をそっと撫でるように始まったそれは、世界をしっとりと濡らしたあと、光量を上げるように華やかになっていく。
この月の下では、ちいさな花に降りた雫にさえ、きらめきが添えられていくよう。
もの悲しくもやさしくも聴こえる透明度の高い音色は、私の心を強く打った。

ところが、奏でる音色とは違い、彼の表情には月面に足跡をつけて遊ぶような無邪気さが浮かんでいる。
月の光にしては明るすぎる指先から、激しい恋がほとばしっていた。
喜びに満ちた演奏は聴いていて楽しいけれど、その分、素人目に見ても繊細な趣には欠ける。
ドビュッシーが万が一心の広い人だったとしても、少なくともクラシック界のお偉い先生方なら怒るか呆れるに違いない。
けれど、満足そうな彼の笑顔に、私は心からの拍手を贈った。

「いい曲なのに、もう少しムード出してよ」

「先輩だって、今日4回は噛んでましたよね」

「数えてたの? 性格悪ーーい」

「ファン心理と言ってください」

やはり笑ったまま彼はピアノに蓋をして、イスの背にかけていたコートを羽織った。

「美月さん」

突然名前で呼ばれて、目の前に立つ彼の顔を見上げた。
こうして見ると、あの頃よりだいぶ背が伸びたし、髪の毛も絡まっていない。

「美豚弁当はやめて、俺と何か食べに行きませんか?」

「いいけど、きっとどこも混んでるよ?」

思い出したようにツリーと道行く人波を見て、

「ラーメン屋とかどうですか? 回転早いし」

などと言う。
だから私は「やだ」と思いっきり顔を背けてやった。

「『回転早い』なんて嫌。ゆっくりいっぱい話せるところじゃなきゃ」

逸らしたままの視界に、がっしりと大きな手が伸びてきた。

「とりあえず歩いてみましょうか。お気に召すところを探しましょう」

「……距離詰めるの早くない?」

「次のチャンスが10年後だったら困るので」

ムードに欠ける『月の光』を弾くひとなのだ。
まあいいか、とその手に自分の手を重ねる。

「イタリアンはやめてあげる。チーズきらいだもんね」

「チーズ味はきらいだけど、チーズ自体は大好きなんです。覚えておいてくださいね」

「あ、ねえ。さっき弾いてた曲、なんて名前だっけ。『主よ、喜びの人よ』?」

「違います」

「『主よ、人と喜びを』」

「違います」

「わかった! 『主よ、人には喜びを』!」

「図々しいタイトルですね。違います」

その手はあたたかく湿っていて、鍵盤の上にあるときと違い、ずいぶんぎこちなく私の手を握っていた。








end

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