恋を忘れたバレンタイン
 窓際に立っていた彼が、ゆっくりと振り向いた。

 胸の中が、ドキッと大きな音を立てた事に気付かぬふりをした。


「ごめんなさい、お待たせして……」

 部屋の中には、彼しかいない。


「いいえ……」

 彼は、さらっと言った。


「部長はまだ? デスクには居なかったけど……」


「部長は来ません。連絡していないので……」

 彼は、窓際に立ったまま言った。


「どうして?」

 と、聞き返してしまったが、彼の表情から理由は察する。


「どうして? こっちが聞きたいですよ?」

 彼は、深いため息をつきながら私を睨んだ。



「あ…… 本当にゴメンなさい。お礼も言わずに…… もうすっかり良くなったわ。ありがとう……」

 私は、精一杯平静を装い笑みを見せた。

 だが彼は、ギッと睨んだ。


「そんな事を、言っているんじゃない事ぐらい分かりますよね? 誤魔化さないで下さい。どうして、黙って帰ったんですか?」


「そ、それは……」

 私は、彼から目を逸らした。


「俺、あなたの連絡先も住んでいる所も分からないんです…… どれだけ心配したと思うんですか?」


「えっ?」

 思わず、彼の目を見てしまった。

 この人は、私を心配していたというのだろうか? 
 確かに、一生懸命世話を焼いてくれていたが……

 
「そんな事も、分からないんですか?」

 彼は呆れたいようにため息をつく。


 でも、私の中の拗れた感情は、そんなに簡単に溶けては行かない。
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