愛したい、愛されたい ─心を満たしてくれた君へ─
「いつかそのうち話すよ」
「料理を作り始めたのは社会人になってから?」
結婚する数日前、 のちに妻となる志織は何気なく俺に尋ねた。
そのとき俺は、ある一人の女性のことを思い出していた。
かなり険しい顔をしていたのだろう。
志織は“まずいことを聞いてしまったのかも”という顔をして、黙り込んでしまった俺の様子を窺っていた。
歳下のいとこの玲司と志岐、そして当時志岐と婚約中だった木村葉月と一緒に5人でお好み焼きパーティーをしようとしていたので、楽しい雰囲気に水を挿してはいけないと慌てて取り繕った。
そしてなぜ料理をするようになったのかという細かい事情は話さず、いつ始めたのかだけを簡単に説明した。
「またいつか、そのうち話すよ」
俺がそう言うと、志織はそれ以上は何も聞かなかった。
結婚してからもうすぐ3か月になろうとしている。
志織はあのときの何気ない一言を忘れてしまっただろうか。
もし忘れているのなら、話さない方がいいのかも知れない。
だけど俺は誰にも話したことのない“あの人”と過ごしたほんの短い間の出来事を、志織なら何も言わずに受け止めてくれるような気がしている。
それは志織に対する甘えだと言ってしまえばそれまでだけど、自分自身も忘れかけていたもう14年ほども前の恋とも呼べないような苦い経験を、志織にだけは知っていて欲しいと思う。
俺がなぜ女性が苦手になったのか。
それは俺を捨てて出ていった母や、志織と出会う前に付き合っていた芽衣子との社内恋愛で傷付いたことだけが原因ではなかったからだ。
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