風の歌
水嶋 花憐(みずしま かれん)。
それがこの物語の主人公だ。
今年の春、志望校に無事合格し、華の女子高生となったばかりのこの少女は、明るく活発な女の子だった。
「花憐! 今から部活行くとこ?」
蝉の鳴き声が煩い中、駅を出てすぐに後方から声をかけられる。
「あ、成美。うん、今から部活だよ。成美(なるみ)は?」
慌てて駆け寄る成美は、高校に入ってからできた初めての友人。
「あー、わたしは恥ずかしながら補習だわ。この前のテストで欠点とっちゃったからね…」
恥ずかしそうに頭をポリポリとかく成美。
「花憐はいいなぁ、優秀で。欠点なかったんでしょ? 吹奏楽部の活動も順調みたいだし、羨ましいなぁ」
「今回はたまたま欠点がなかったってだけだよ。それに、実際吹奏楽部は楽しいけどさ、ほんとはやりたいことが微妙にずれてたりするんだよね」
花憐はローファーの先っぽで、近くにあった小石をコツンと蹴飛ばした。
「吹奏楽がやりたかったんじゃないの?」
成美は不思議そうに、隣を歩くショートカットの少女を振り返った。
「音楽はめっちゃ好きだよ。小さい頃からやってるピアノも好きだし、中学んときからやってるフルートも好き。でもね、一番やりたいのは別にあるんだ…」
成美の目をじっと見つめ、花憐はにっこりと笑った。
「歌。大学はできれば声楽科のあるところに入りたいって思ってる。もしくは、海外留学か」
「えっ! そうなの?! それって、すごいじゃん!」
高校の方から、教員呼び出しの放送が小さくこだまして響いてくる。
「まあ、これはまだ、希望的観測レベルだから、まだ誰にも内緒ね」
花憐はそっと指を立てて笑った。
まさかこれが、平凡で平和な日常の最後になろうとは、当の本人は思いもしなかっただろう。
何もしなくても汗ばむような、暑い夏休みの一日だった。
いつものように、吹奏楽部の練習へと向かうその道すがら、花憐はとんでもない非凡な世界へと、迷い込んでしまうこととなる。
「やっばい! 補習授業に遅刻だわ! ごめん、先行くね!!」
成美がはっとしたように腕時計を見て走り出す。
「あ、うん! 成美頑張ってね」
走り出した友人に手を振り、花憐はふと足を止めた。
成美が走って行った先が、わずかに揺れ動いたように見えたのだ。
(…陽炎…??)
この暑さで、陽炎が見えたのかもしれないと、花憐は目をこすって
みる。
一瞬見えた気がした揺らぎは消え去り、何事もなかったかのように、通学途中の小道が続いている。
首を傾げながら、花憐は再び足を踏み出した。
気のせいか、キンと耳鳴りが聞こえたような気がしたが、疑うことなく彼女はそのまま歩き続けた。
しばらく歩いた後、急に周囲の風景がグニャリと歪んだことに気づき、花憐はまたもや足を止めた。
が、時はすでに遅かった。
慌てて元の道へ後退ろうとするも、花憐のいる空間自体が歪み始めていて、前も後ろもない状態になりつつあった。
「やだ、一体どうなってるのよ!?」
目が回りそうな異様な空間に飲み込まれ、花憐は身体中から汗が吹き出すのを感じた。
学生鞄を放り出し、何か掴まる物を探すが、近くには何も見当たらない。
吐き気を催し、花憐はその場で顔を覆ったまましゃがみ込んだ。
「なんでもいいから、早くおさまってよ!!」
そう叫んだ直後、周囲がやけに静かなことに気付いた。
そっと顔を覆っていた手を離し、そっと周囲を見回してみてやっと気付いた。
登校途中のいつもの小道は、見慣れない石畳の道にすり替わっていた。
「…は?」
状況が全く理解できず、呆然としながら、花憐はゆっくりと立ち上がった。
「なによ、これ、どういうことよ」
足元に落ちていた学生鞄を拾い上げ、立ち竦む。
と、突然小さく、「ガラガラガラ」という、何か道の上を転がす音が聞こえ、花憐はおそるおそる音のする方へと歩き始めた。
小道の先には僅かに、木製の荷車を引く人の姿が見える。
荷車いっぱいに積んだ干し草のようなものを、前の人が引き、後ろから子どもが押しているようだ。
近づくにつれ、花憐が一番気にかかったのは、荷車を引く人たちの服装だった。
簡易な黄みがかったシャツに、黄土色のズボン。使い古した皮ベルト。
いつだったか、映画で見たような、中世ヨーロッパあたりの古めかしい格好をしている。
(これって、映画かなんかの撮影…??)
そう思って撮影人の姿を探すも、そういった人気は一切見当たらず。
そして次に気にかかったのが、彼らの髪の色。
荷車を押す少年も、荷台を引く男性も、どちらも綺麗な焦げ茶色をしている。
見慣れた現代人の茶髪などではなく、生粋の焦げ茶色だ。
花憐はまさかと思いながらも、早足でその荷車の横を追い越し、素早く彼らを振り返った。
(やっぱり日本人じゃない!!)
驚き目を丸くする花憐を見た、荷車を引く男たちも、同じく目を丸くしている。
荷車を押していた子どもが、何やら前の男に小声で話しかけるのが聞こえたが、花憐の頭はすでに真っ白になっていた。
なぜなら、彼女の前に広がる光景がとんでもないものだったからだ。
それは、高く立派な石造りの壁に囲まれたの街の入り口だったのだ。
「嘘でしょ、これ、どうなってるの?!」
あんぐりと口を開けたまま、信じられない光景を前に、花憐は立ち尽くすのだった。