風の歌
それから数日、念のため搭の部屋で自粛する日が続き、花憐は色々と考えることが多くなっていた。
おそらくは、時空の歪みか何かで自分がこのアエテルニタス王国へと飛ばされてきたのではないかと推測していた。
当初はタイムスリップを疑ってはいたが、この世界の地図も文字も、花憐が全く見たこともないものばかりだった。
それを考えると、花憐は時空の歪みから、全く別の異世界へと迷い込んできてしまったと考えるのが妥当だと感じるようになっていた。
見知らぬ言語の習得は骨が折れたが、幸いにも、日本語の語順や助詞の使い方などに酷似していたので、拙いながらもなんとか話せるようにもなってきた。
でも、いまだアエテルニタス王国のことはわからないことばかり。
セリルはまだ、あまりこの国について詳しくは教えてくれてはいない。
「今頃、皆どうしてるかな…。母さんも父さんも、たつ兄も心配してるよね、きっと」
思わず独り言を呟いたとき、いつものように木製の扉が開き、セリルがひょっこり顔を出した。
「カレン、今、母国の言葉で何か呟いていたね。なんて言っていたんですか?」
にっこりと微笑んだセリルの手には、美味しそうな林檎が握られている。
「こんにちは、セリルせんせい。わたしの かぞくのことです」
セリルは優しく林檎を花憐の手に握らせてやった。
「家族が恋しいかい? まだどうやってここまでやってきたのかは思い出せない?」
花憐は首を振った。
「きづいたら、ここにいたんです」
これは、何度かセリルに花憐なりに正直に説明してきたつもりだったのだが、当然のことながら、セリルにはそのことが理解できないようで、花憐の記憶が混乱していると勘違いしているらしい。
「わたしは、がっこうにいくところでした。そしたら、きづいたらここにいました」
片眼鏡の奥の目を瞬かせ、セリルは考え込んでしまう。
「…まあ、それはまた追々、ゆっくりと思い出すこととして…。今日は君に是非とも会いたいという方が来ているんです」
閉まり切っていなかった扉の外をゆっくりと開き、セリルは外の人物を中へと招き入れた。
その人物を見た途端、花憐は大きな音を立てて椅子から立ち上がった。勢いで椅子はバタンと床に倒れてしまう。
「あーーーっ!!! ひとごろしーー!!!!」
花憐の叫び声を聞いた途端、セリルがぶふっと口を押さえて吹き出した。
「人聞きのわるい。実際、殺した訳ではないだろう」
面食らった顔でそう返したのは、シーラだった。
「このひと、わたしのこと、みずにしずめた!!」
短い黒髪を揺らしながら、花憐はシーラを指差して言った。
「わたしだって、好きでやったことではない。仕事なもので、仕方がなかった…」
「でも、わたし、しにかけた!!」
花憐のすごい剣幕に押され、あのできる男シーラ・メンシスがしどろもどろな様子に、セリルは傍らで必死に笑いを堪えている。
「シーラさん、貴方の負けですね。先に謝らなければ、きっとこの先話が全く進みませんよ」
セリルはそう、シーラに小さく耳打ちした。
「…仕事とは言え、拷問したのは事実。申し訳なかった」
驚くことに、コホンと咳払いをした後、シーラは可憐に謝罪を申し入れたのだ。
これは、花憐にとってもセリルにとっても、嬉しい驚きだった。
「わたし、ことばがわからなかった。だから、はなせなかった。でも、いまははなせる。セリルせんせいに、ならいました。」
シーラは澄んだ花憐の瞳を見てはっとした。
(この娘、嘘は言っていない…)
「わたしのこと、わるいひとと まちがったですね。
ことばが、わからないふりしたと おもったですね。だから、ゆるします。でも、ほんとは おこってます」
頬を膨らませ、可憐はシーラを見上げた。
呆気にとられた顔で、シーラはセリルに視線をやった。
「セリル、本当にこのふた月でオービス語をここまで会得できたのか?」
「ええ。読み書きから文法まで、全てわたしが教授しましたが何か?」
正直なところ、この短期間でここまで会話ができるレベルになるとは、シーラ自身期待していなかったのだが、予想以上の習得のはやさに、感心する他なかった。
「わたしの フルート かえしてください」
花憐はシーラに林檎をもっていない方の手を差し出した。
「フルート?」
「がっきです。あれ、とってもたかいです。たいせつです。かえしてください」
はて、と少し考え込んだシーラは、ふとあの不思議な細長い物体を思い出した。
「ほお、あれは楽器なのか…」
「かえしてください」
差し出した手を更にシーラに近づけて、花憐は真剣な面持ちで言った。
「悪いが、あれが危険なものでないとわかるまで、まだわたしが預かっておく。」
腕組みしたシーラは、ばつが悪そうに花憐を見下ろした。
「こんど、フルートを ふきます。みてください。あぶなくないです」
流石にショックだったのか、悲しそうな目で花憐はシーラに、言った。
「大丈夫ですよ、近々きっと返して貰えるはずです。」
セリルは慌ててフォローに入る。
「それよりシーラさん、聞きたいことが他にあったのでは?」
そう促され、シーラは深く頷いた。
「セリル、悪いが席を外してくれ」
神妙な面持ちのシーラを見て、何かを悟ったかのように、セリルは小さく頷き、扉を出て行ってしまった。
「…単刀直入に訊く。これはどこで手に入れた?」
セリルが居なくなったのを確認した後、シーラはベストの内側から、すっと紙の束を取り出した。
「あ! わたしの がくふです。がっこうで もらいました」
きょとんと見つめ返す花憐の様子に、不審な点はなさそうだった。
「これは楽譜なのか?」
「はい。このくにも がくふ ありますか?」
シーラは驚きの事実に、戸惑いを隠せなかった。
(この記号の羅列が楽譜だと…? このような楽譜など見たことがない。では、神殿にあるあれも…)
「お前は、これが読めるのか」
花憐は頷いた。
「フルートがあれば、ふけます。ドレミで うたえます」
シーラははっとして、歌おうとした花憐の口を咄嗟に塞ぐ。
「むぐっ?」
口を塞がれ、驚いた様子で花憐は瞬きした。
「この楽譜とやらも、わたしが預かる。今の話は誰にも話してはいけない。セリルにもだ」
シーラに耳打ちされ、花憐はよくわからないままコクコクと頷いた。
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「セリル、あの娘はどこから来たと言った?」
西の搭からの帰る道すがら、シーラはご機嫌な様子のセリルに訊ねた。
「カレンは、ニホンからきたと言ってます。それも、どうやってこの国へ来たのかはわからないと…。気付いたらこの国にいたとばかり話していますよ」
シーラは困ったように肩をすくめる。
「ニホン? そのような国は聞いたことがない」
「当たり前です。わたしが知る限り、この世界にそのような国は存在しません。ましてや、彼女の容貌は稀です。黒髪に黒い目、象牙色の肌色。黒髪、褐色肌の人種は聞いたことはありますが」
目を細め、シーラは声を落として言った。
「セリル、一体何が言いたい」
「…わたしのあくまで推測です。戯れ言と思って聞いてくださいね?」
急かすようにシーラはセリルの脇腹を肘で小突いた。
「おそらくカレンは、この世界の人間ではありません。別の世界からきました…」
そう言って、セリルはにこやかな片眼鏡の奥から、真剣な眼差しでシーラを見つめた。
シーラは、何やら思うところがある様子で、暮れかけて赤みがかった空を見上げるのだった。