Crazy for you  ~引きこもり姫と肉食シェフ~
「……尊……」

いなくなりそうな不安が、再びもたげる。 何処にも行かないで、そんな気持ちに支配されて、莉子は自然と動いていた。
尊に手を伸ばし抱き締める。

「莉子」

さすがの尊も驚いた、莉子から触れてくるなど意外すぎた。

「よかった……生きててよかった……」

耳元の莉子の声に聞き入る。

「生きてる間に、ちゃんと伝えないといけないことがあるって判った……私ね、尊が好き、この世からいなくなったら、姿が見れなくなったら嫌だって思うくらい、尊の事、大好き……!」

囁く様に言って、莉子は腕に力を込めた。

「莉子」

尊が呼ぶと、莉子は小さな声で「ん」と返事をして、更に尊を抱き締める。

「──ああ……ちくしょう、抱き締めてもやれないなんてな……」
「いいよ、そんなのいいよ……!」

代わりに莉子が腕に力を入れる、苦しくなるほどに抱き締められて、尊は幸せを噛み締める。

「……莉子の体はあったかいな」
「尊もだよ」

それは生きていると言う事だ。 莉子の目に涙が浮かぶ。それを拭う仕草に、尊は莉子が泣いていると判った。

「泣くなよ。涙も拭いてやれない」
「いいよ、これは嬉し涙。尊が生きててよかったなって」
「そっか。なあ、顔が見たい」

言われて莉子は腕を緩めた、離れたはいいが、泣いた顔は見られたくない、俯き加減でいると、

「莉子」

頭上に声がかかる。

「うん?」
「キスしたい」
「……ええ……!?」
「お願い」

お願い、と言われては断れない、戸惑いつつもベッドに手をついて体を伸ばして、そっと尊の額に唇を押し付けるとすぐさま言われた。

「そんなとこじゃなくて」
「うん……」
「口にしてよ」
「え、だって、マスクしてる……!」
「ちょっとくらい平気だって。早く」

せかされて莉子は尊と向かい合わせになる様に座り直すと左の耳にかかっている酸素マスクの紐をそっと外す。

「目……閉じて……」

言われて尊は素直に目を閉じた。莉子は尊の肩に手を掛け、そっと顔を近づける。

(告白して、初めての、き、キスが、自分からなんて……)

ドキドキと脈打つ心臓が尊に伝わりそうで恥ずかしかった。
ほんの少しだけ触れ合って、早くも離れようとした莉子の背を、尊の手が押さえた。

「──!?」

しかも、莉子の唇を尊の舌が舐める。 尊の肩に掛けていた腕に力を込めて離れた、顔どころか全身が羞恥で熱くなる。

「う、動けないんじゃなかったの!?」
「おお。愛の力だな」

尊は舌なめずりをして言う、しかし手はまた、ぽとりと力なくベッドに落ちた。

「もう! そんな事言って……!」
「藤堂さん」

カーテンの向こうから背中に声がかかり、莉子はびくりと体を震わせる。

「お静かに」

言われて莉子は慌ててベッドから降りた、尊は呑気に「はーい」などと返している。 一瞬は腹が立った莉子だが、どうやら元気そうな尊を見てまた涙が滲む。

尊が担ぎ込まれた深夜、尊の両親も埼玉から駆け付けた。皆が揃った席で状況を知らされる。 場所が場所だけに予断を許さない、万が一命が助かっても麻痺が出る可能性もあると。

『手や足などですと苦労も目に見えますが……シェフをしていると聞きました、脳は様々な情報を処理しています、味覚や嗅覚も』

失うと言う事ですか、と誰かが聞いた。

『まだ判りませんが。そういう可能性もあるかもしれないと、覚えておいてくださると』

医師は申し訳なさそうに話してくれた。 シェフをしていて味覚や嗅覚を失えば、ある程度は経験やレシピでまかなえても、支障がある事は目に見えている。ましてや安さが売りの大衆食堂ではない、客だってイケメンのシェフが作るからだけが理由で殺到している訳でもない。尊が作る料理がおいしいから集まるのだ。 それを誰よりも知っているのは莉子だ。毎日のように食べさせてもらった料理の数々が思い出される。 作るのが好きだ、そう言っていた。そんな人からその仕事を奪って欲しくないと心から願う。
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