Crazy for you  ~引きこもり姫と肉食シェフ~
元町の商店街を、更に駅に向かって歩みを進める。

「──ああ……ちょっと店を見に行こうかな」
「うん」

バス通り近くまで近くまで行くとその店はある。
尊は階段の下から店を見上げた。

「ん? 上がらないの?」
「それはいい」

そう言って見せた淋しげな笑顔が、莉子の心に突き刺さる。

「中入ったら、あれやこれやしたくなりそうだからな。それはちゃんと回復してからだ」
「──うん」

今日はまだ退院初日だ、様子見の為の通院は暫く続く。





結局。山下公園までぐるりと回ってから帰宅した。
夕飯も並んで作り、食後の片付けを莉子がしていると尊は大きな欠伸をする。

「──ねむ」
「大分歩いたもんね。部屋、戻ってゆっくりしたら?」
「家には帰らないって言ったろ」
「ええ……!?」

一瞬尊を見たが、恥ずかしくなってすぐに洗い物に集中する、尊はぼんやりとテレビを観ていた。

(うちに泊まる!? 待って、ベッド一個しかないよ!? あ、尊はベッドに寝てもらって、私は床で……でも布団ないや、どうしよ、あ、尊んとこにあるかな……)

洗い物が終わって尊を見ると、既にソファーで横になって寝息を立てていた。

「え、やだ……尊、駄目だよ、こんなとこで寝ちゃ。風邪ひくよ?」

揺らすが起きる気配がない。

「──さすがに、疲れたよね……」

ひと月以上も入院生活を送り、退院したその日に随分歩き回ったのだ。本人は楽しそうだったが、無理をしてしまったかもしれない。

「どうしよ……私じゃベッドまで運べないし……」

とりあえず寝室から、上掛けの羽毛布団を引っ張って来た。それを体に掛け、ずり落ちないようソファーと尊の体の間にしっかり挟み込む。

尊の寝顔を見て、溜息が漏れた、安堵の溜息だ。寝顔はあどけなく見えた。集中治療室の寝顔とは違う、安らかな寝顔に幸せが込み上げる。

「……本当によかった……死なないで……」

思わず手の平で頬を撫でていた、それでも起きない、愛おしさが込み上げてきて、莉子はその頬にキスをしていた。
尊は熟睡しているのか起きる気配がなかった、そんな事に再び安堵して莉子は時計を見る。

「──少し、仕事してから寝ようかな」

その間に尊は起きるだろうか。





日付が変わろうかと言う頃、莉子はパソコンの前で背伸びした。 時計が目に入ってはっとする。

「あ、もうこんな時間……!」

慌てて仕事部屋を出た、リビングはまだ煌々と明かりが点いていて、尊の長い足がソファーの肘置きからはみ出している。

(まだ寝てるんだ……)

莉子は傍らに膝をついて、尊の頬を撫でた。

「尊? 起きて、ベッド行きなよ」

しかし尊はうんともすんとも言わない。

(すっごい熟睡。まあ一度寝ると朝まで起きない人もいるよね)

尊もそのパターンかと思う。

(今日はここでいいかな……私も寝よ)

尊にかけた上掛けを直して、リビングの照明を落とした。自身も小さな欠伸をして、仕事部屋の隣、リビングに面した二つのドアの内、左側を開けて中へ入る。

尊の家ならば、尊の部屋に相当する場所だった。莉子の家では寝室となっている。羽毛布団を尊に上げてしまったので、毛布とタオルケットでは寒そうだと今日だけはパネルヒーターを点けて寝ようと思った。 寝間着に着替えベッドに潜り込む、あっと言う間に眠りに着いていた。





真夜中、尊は間違うことなく莉子の寝室のドアを開けた。 確認した訳ではないが、なんとなくリビングに面した右のドアは仕事部屋だと判っていた、その隣のドアは開いた事が見たことがなかったが、それだけにそこが寝室だろうと判った。
莉子は正面の壁際にあるベッドで、出入口に背を向けて眠っていた、微かに規則正しい寝息が聞こえる。


***


翌朝、莉子は暑さに目を覚ました。

(ん……やっぱ暖房つけっぱなしは駄目だな……あっつ……)

身じろぎした時、判った。

「──えっ!?」

背中を温かいものが包んでいた、足に何かが絡みついている、腰に温かいものが巻かれ、髪に吐息がかかっている──。

(な、ななななな、なんで!?)

昨夜尊に掛けた筈の羽毛布団が掛かっていた、そして、

「ん……」

間近で聞こえた尊の声、そして莉子の腰に巻かれた尊の腕がするりと上がってきて無防備な乳房を……。

「きゃあ!」

声と共に手を押さえ付けると、その手を握られた。

「ん……莉子……おはよ……」
「おはよじゃないよ! いつの間に……!」
「いつぅ……? 何時だったかなぁ……」

寝ぼけた声で言いながら、莉子のうなじに鼻を埋める。

「何時とかそういう問題じゃなくて!!! 勝手に人の寝室に……!」

尊の腕の中でジタバタと暴れた、尊の腕が緩み安堵した時、手首を掴まれ引かれた。

「え……っ!」

ベッドに仰向けにされ、両手首をベッドに押さえ付けられる。
莉子の体の上に跨り、尊は莉子を見下ろした。

「や……!」
「あのさ。俺、これでも相当我慢してんの。勝手にベッドに潜り込むくらいは許容範囲にして欲しいね」
「が、我慢って……!」
「服ぐらいひん剥いてやろうかと思ったよ。でもやめた。せめて服の上から全身撫でまわしてやろうかとも思ったけど、それも我慢したの、褒めて欲しいくらいだよ」
「な……ひん……っ、撫で……!!!」

真っ赤に熱くなった顔も隠せず、莉子はうろたえた瞳で尊を見上げた。そんな顔を見た尊は項垂れる。

(ここで、少しくらいは「嬉しい」って反応があれば、無理矢理やってやんだけどなあ……)

とにかく莉子の反応は初心(うぶ)すぎる、こんな娘に乱暴しようなんて気は起きない。

諦めて、額にキスをした。

「──ひ……っ」

それでも莉子が身を固くして小さな悲鳴を上げる。尊は内心溜息を吐いて体を起こした。

「朝飯作ろうっと」

明るく言ってベッドから降りる、莉子はそれを無視するように背を向ける。

(う、嘘でしょ、一晩中一緒にいたの!? それに気付かない私って……!)

昨夜も尊が起きないと思ったが、自分もそうだったのかと思うと少しショックだった。






その日は一日部屋で過ごした。

莉子は仕事が溜まっていた、入院している尊の脇で多少の仕事はしていたが、消化するには至っていない。尊は見舞いに来なくていいと言ったが、それは莉子が嫌だった。一日でも逢えないのは耐え切れないと思えた。病院でできたのは作詞の仕事だけだ、作曲の方はかなり溜まってしまっている。

大きなヘッドホンから流れる音楽を聴きながら作業をしていると、左手の先にマグカップが置かれた。

「え──あ、ありがと……」

振り返ると、同じマグカップを持った尊が呑みながら微笑む。
香しい香りは紅茶だった。アッサムのリーフと、ティーポットは尊の部屋から持ってきたものだ、莉子はいつもメーカーなどどこでもいいし、ペットボトルで済ませてしまう。

「どういたしまして」

尊の返事を聞いて、莉子はまた画面に向かう、五線譜に書かれた音符が並んでいた。 紅茶を一口飲んでから、鼻歌が漏れる。

それを音符に変換する、機械で再生してみて思ったものと違うなと音符の位置を変える。 そんな事を繰り返し、足や指や頭でリズムを取りながら曲を作っていく。

「いいもんだな」

急な声に驚いた、振り返ると尊が立っていた、もうマグカップは空なのだろう、取っ手を指に提げて持っている。

「え……やだ……ずっと見てたの?」

作業風景など見られたくないと思った。

「うん、真剣な莉子がいいなと思ってさ。本当に職人だな」

父や、今まで出会ったシェフ達の姿と重なった。

「そんなことないよ……思いついたままやってるだけだし……」

莉子は恥ずかし気に言いながら、ヘッドホンを外した。

「そういうとこが職人なんじゃん。かっこいいなと思って見てた。まあそこまで真剣にやってるからご飯もろくに食べないんだろうなって思ったけど」

言われて莉子は言葉に詰まる。

「でもそこまで真剣にやってるから、いい曲ができるんだろうなって判ったよ。あ、俺、あの曲好き。題名なんだっけ」

そう言って鼻歌のように莉子が作ったバラードを、二小節ほど口ずさむ。

「──恥ずかしいから歌わないでよ……音、間違ってたし」

半音上がるところが、上がり切っていなかった。莉子に絶対音感はないが培われたものはある。

「おや、それは失礼」

尊は笑って謝りながら、莉子が座る背もたれに手を掛けた。

「んじゃ、莉子が歌って」
「下手だよ?」
「下手でも、莉子の声で聴きたい」
「──やだ」
「なんで?」
「なんでも」

その曲は、片思いの女の子が男の子の好きなところ、髪が好き、瞳が好きなどと並べた歌だった。そんな歌詞を尊の前で歌えるはずが無い。

「ケチ―」

尊は笑って身を屈めた。視線を外していた莉子の顎に指を掛ける。
キスされる、と判ったが、莉子は逃げなかった、好きを連呼する歌詞が歌えない理由は判っている。
唇が重なる、尊は離れない、長いキスに莉子は戸惑う。それでも押し退けようとは思わなかった、呼吸が深くなるのが心地よかった。

(……キスも……好き……)

ぼんやりと思った時、

「──する?」

遠くで尊の声がした。

「……駄目……仕事……」

我ながら変なところで生真面目だと思った、しかし尊は怒らない、「はいはい」と言って優しく髪を撫でて部屋を出て行った。





昼も夕飯も尊が作った。

「なんか、ごめんねっ! 尊、全然休めてないよね!!!」

美味しいご飯を頬張りながら莉子は謝った。

「別にいいって。莉子さんに早く仕事を終えてもらわないとね」

莉子の向かいの椅子に座った尊は笑う。

「うんっ、頑張る!」
「その意気。その意気」

尊は本音は隠して優しく微笑んだ。

(いつまでも仕事だなんて逃げはさせないからな)

食事を終えると莉子はさっさと仕事部屋にこもる。

どれほどの時間が経ったのか、室内の明るさが増したのが判った。
仕事部屋の照明はデスクライトだけだ、だが室内が一段明るくなった。

仕事部屋のドアは常に開けてある。ヘッドホンをして仕事をしていると来客が判らないからだ。滅多に来ないだけにピンポンと来ても気付かないと困る。そのドアに背を向ける形で座っていた莉子は僅かに視線を背後に送った、ドアを尊が頭をタオルで拭きながら横切っていのが見えた。

(ああ、電気を点けたのか……)

リビングの明かりの明るさだと判った。微かにプシュ、と空気が抜ける音がした。炭酸飲料の蓋を開けた音と判る。ジュースは買っていないが尊が自室からトニックウォーターを持ってきていたのは知っている、それだろうと思った。

(……いいな……)

微かに感じる人の気配が心地よかった。

香子と一緒に住んでいる時には疎ましい思っていた筈の人の気配が、今は嬉しい。
その理由は簡単だ、尊は邪魔をしないように配慮してくれているのが判る、香子にはそれがなかった。

思わず笑みが零れる。
黙々と曲作りを続けていた。





鼻歌交じりに言葉を紡ぐ。

(あなたに触れたぬくもりを……ううん、熱を……うん? どっち? あなたの、あなたの……)

そんな言葉に、何分も足止めを食う。

(この子は気持ちを伝えたばかりで……どっちがいいかな……?)

腕組みをして項垂れ、天井を見上げる。そう簡単に答えが出ない、明確な正解がないからだろう。
莉子は立ち上がっていた。
リビングに行くと尊はソファーに座ってテレビを観ていた。

「尊」

背後から呼びかけると、頭にタオルを乗せた尊はペットボトルに口を付けたまま振り返った。

「んー?」
「ちょっと、手、貸して」
「ん? ああ、いいよ」

ペットボトルを置いて立ち上がろうとする。

「え、ああ、違うの、本当に、手、貸して」

尊は何か手伝ってほしいと思ったようだ、それを止めてソファーの背もたれ越しに、莉子は手を出した。

「ん? 何?」

尊は意味も判らず右手を挙げた、その手を莉子は掴む。

「うん……」

勝手に頷き、納得している莉子を、尊は不思議そうに見上げる。

「……うーん」

握り締め、尊の手を引き寄せ鼻を押し当てた。
風呂上がりだからか湿り気のある温かさで、せっけんの香りもする。

(……気持ち、いい……)

思わず目を閉じ、顔に擦りつけていた。男性の割には細い指だと思えた、あれだけ炊事をしているのに荒れた様子もなく滑らかな肌が意外だった。

(好きな人に触れるって……なんか……落ち着く……)

その気持ちを言葉にしたいと意識を集中していた時、不意に手を掴まれ引っ張られた。

「え……! や……!」

一本背負いの要領で、どさりと落ちた先は尊の膝の上だった。

「え──」

床から天井に逆転した視界の中、尊がいた。

「手なんかで満足してないで、なんなら全身どうぞ」
「い、いいよ! お断りします!」

尊の膝の上に横抱きにされた状態の莉子は、慌てて立ち上がろうとする。しかし尊の左腕が背後から回ってがっちり莉子の左肩を掴んだ。

「お断りする立場に、莉子はないんだよねえ」

空いた右手で優しく莉子の頬を撫でる。

「あの、もう十分だから……!」
「何が十分なの、自分ばっかり十分ってないだろ。あんないやらしい顔で人の手の匂いでさ。誘ってないって言ったら怒るよ?」
「さ、誘ってないよ……! 仕事の参考に……!」
「だったら、こちらもどうぞ」

言って唇同志を押し当てた、莉子は一瞬は身を固くし、足をばたつかせたが、すぐに大人しくなる。

(キス……気持ち、い……)

後頭部は尊の左腕に支えられ、顔は右手に固定されて受けるキスに莉子は酔った。 ついては離れるだけのキスは、何度も経験している。

この時もそれで終わるだろうと莉子は身を任せていた、現に尊は莉子の唇を味わうように食んでいた。

しかしそのキスが変わった事に、莉子は瞬時に気付く。

「──ん……! んんん……!」

身を固くし、体を捩ったが、尊は離れない。

尊の舌が侵入してきた、戸惑い声を上げようとした隙をついて歯列を分け入って更に奥へ──。

「たけ……ん……!」

そんなに深いキスは初めてで、莉子は動揺する。
抵抗した、尊のパジャマを引っ張り、髪に指を埋め、体を反らせる。 顔を背けようとしてもできなかった。

やがて全ての抵抗がなくなる、テレビから聞こえる小さな笑い声に、二人の荒い呼吸が混じる。番組が帯のニュース番組に変わっても、二人は離れなかった。

「──莉子の部屋、行こう」

囁く小さな声がした。

「……うん」

返事は更に小さかった、しかし尊は聞き逃さない。

左腕はしっかりと莉子を抱き締めたまま、リモコンでテレビを消し、リビングの照明も落とした。莉子の膝裏に右腕を差し込むと、

「あ、歩けるよ……」

莉子は言った、尊はまだ病み上がりだ。
尊の膝から降り立ったが、少しふらついた。それをすぐに見極めたのだろう、尊は莉子の腰を抱き締める、逃がすまいと言う思いもある。

莉子が部屋のドアを開けた、正面の窓はまだカーテンが開いたままだった。 それを莉子が締めに行くと、尊は天井の照明をつける。

「え……! 明るくするの!?」
「せっかくだから莉子を全部見たいし」
「や、やだよ……!」
「しかたないな」

言って常夜灯だけに変えた、そしてなにやら丁寧にカーテンを閉めている莉子を背後から抱き締める。 莉子は大きく深呼吸した。

「莉子……」

耳元で熱のこもった声で呼ばれ、それだけで腰が砕けそうになる。
尊は莉子の耳たぶを噛み、首筋を噛みながら、手は全身を撫で始めた。左腕がアンダーバストを捕らえ、右手がジーンズの縫い目をなぞって敏感な部分に吸い込まれようとすると……。

「や、やっぱり今日はやめ……!」

その手首を押さえて叫んでいた。

「もう無理」

健が莉子の頬を舐めながら言う。

「判るでしょ?」

尊の両腕に力が入って、二人の体が更に密着した。

尊の言葉の意味を、莉子は臀部に当たるもので知る。
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