Crazy for you  ~引きこもり姫と肉食シェフ~
5.
東京都内のマンション。

神経質そうな目をした細面の男は、橘龍一(たちばな・りゅういち)と言った。橘プロ社長の息子だ。
鍵でドアを開けると、かなりの音量の音楽が流れて来る。溜息をひとつ吐いて玄関を上がると、ビール片手に頭でリズムを取っている香子がいた。

龍一は何も言わずに、リビングにあったオーディオのボリュームを下げる。

「え、もう! ノリノリだったのに!」

香子が怒鳴る。

「近所迷惑だ、もう少し小さくても聞こえるだろう」

現に今は、適正な音量になっている。

「大丈夫よ、その為に防音設備がしっかりしてるマンションを買ったのよ」
「そりゃそうだけどさ……これって、新曲?」

香子の手にあった楽譜に奪い取った。

「そう、さっき受け取ったばっかのバンドちゃん向け! でもすごくいいわよねえ、ツアー後に出す新曲にしようかなー」

香子はワクワクした様子で再び全身でリズムを刻みだす。

「──香子が作った?」
「違うわよ、莉子!」
「随分毛並みの違う曲だな、こんなハードロックな曲は書かなかったろ。香子が手を加えた?」

必要があれば、Caccoの名で別の者に編曲を頼んでいた。

「原曲のままよ! やっと私が欲しいのを書けるようになってきたのかなあ。これはいいわあ」
「え、じゃあ、この歌声も、莉子ちゃん?」

室内に響き渡る声は、張りがあり自信に満ちていると感じる、正しく香子の歌声の様だった。

「莉子よぉ、デモテープのままだもの」
「へえ……歌詞も『僕が愛した証を 君の体に刻もう』……か。なんとも情熱的だな」
「ふふん、いいわよねえ」
「最近は曲調が変わったと思ったけど、これはまさしく真骨頂だな」
「やっとやる気になってくれたのかなあ。作詞だ作曲は、クライアントの意図を組んでくれないとー」
「『本来は、私がやってる仕事なんだし?』」

髪にキスをしながら言う龍一を、香子は睨み付けた。

「私がやらなきゃなんて、これっぽっちも思ってないからね」
「おや、これは失礼」

言って香子の顎に指をかけ上を向かせると、今度に唇にキスをする。

「じゃあお詫びは、『僕が愛した証を君の体に刻もう』かな?」

龍一の言葉に、香子は笑顔で応える。腕を伸ばすと、龍一の首にかけ引き寄せた。
先日の胸についたキスマークの犯人が、再びそれを行おうとしている。


***


カーテンの隙間からの朝陽の眩しさに、莉子は尊の腕の中で目を覚ます。

(あ……尊……また泊まって行っちゃんだ……)

相変わらず尊は毎日莉子の家にやってくる。度々一緒に朝を迎えてしまう事もあってさすがにいけないとは思うのだが、幸せの方が大きかった。背中に感じる尊の体温が心地よかった、目の前にある大きな尊の手に、そっと自身の手を重ねる。

「ん……」

尊は小さな声で返事でもしたかのようだった、莉子の手を優しく握り返してくれる。

「……怖いぐらい幸せって……こんな時に言うんだろうな……」

尊の手を引き寄せてキスをした、尊はまだ眠りが深いらしい、背後で寝息が聞こえた。

部屋の合鍵を渡していた、尊も自身の部屋のものをくれようとしたが「やっぱやめよう」と言われてしまう。上がってくれるのは構わないが、やはり拓弥がいるからな、と言う。ただの弟ならばいい、香子の大ファンの男だ。

「やっぱあいつは寮にでも押し込むか……」

呟いたのは聞こえた、そもそもは両親も寮に入れようとしていたのだと言う。尊のマンションは大学に近いわけではない。

確かにな、とは思う。莉子の仕事は言ってないが、在宅で働いているのは判ったようだ。昼間、尊がいない時間に時々やってくる事は、当然尊には言っていない。ただ会いたいだけのようで、玄関先で帰ってしまうので居留守を使うようなことも無いが。

だから、尊が来てくれるのが嬉しい、鍵が開く音がこんなにも嬉しいと思ったのは初めてだった。莉子が店に通う事は無くなったが、毎日尊はお弁当を届けてくれる、それを二人で食べるようになった。そして店の定休日には一緒に外出してデートを楽しむ。

尊が間違えて部屋にやって来たあの日を、有り難いと思う毎日だった。


***


歌番組の収録が終わった。

「お疲れ様でーす!」

Cacco with bangの三人も、出演者やスタッフ達と挨拶を交わしながらスタジオから出る。 「香子ちゃん!!!」

マネージャーの田所がスタッフを押し退け飛び込んで来た。

「なによお」
「社長が控室で待ってる! 大事な用みたい! 早く!」
「──え?」

それでも香子は笑顔で挨拶をしながら控室へ急いだ。後を追おうとするメンバーはマネージャーが引き留める。
香子はノックもせずにドアを開けた。

「よお」

社長の橘は、煙草をくわえたまま横柄に手を上げて挨拶する。

「どうかした? こんなとこまで来るなんて」
「これさあ、香子お?」

言って座卓の上に置いてあった、A4サイズの紙を四枚、指示した。雑誌の見開きページらしい、FAXなのだろう、画像は荒い。それでも見出しの大きな文字は簡単に読み取れた。

とあるマンションから出てくる男女の写真だった、腕を組み笑顔が見て取れる二人は──。

『Cacco with bangのボーカル、今度のロマンスのお相手はイケメンフレンチシェフ!』

藤堂尊の顔は全体にモザイクがかかっていて顔立ちははっきり判らないが痩身の長身である事は判る、それを見上げる花村莉子は、香子も橘も見たことがない笑みを見せていた。
マンションは見覚えがある、香子も何度か訪ねた莉子のマンションだ。何枚かある写真は全て二人で映っていて、服装が違うので何日かに渡って撮られたと判る。出てくる様子が一番大きく載っていた、そして元町商店街にあるスーパーの袋を手に仲良く手を繋いで入っていく姿もあった。明らか
に、同棲していると感じさせるものだ。

見た香子は眉間に皴を寄せる。

「──何これ?」
「明後日発売の週刊誌だとよ。お前さん、いつのまに?」
「知らないわよ、フレンチシェフ? そんな知り合いいないし」
「へえ、じゃあ、莉子ちゃんか。引きこもりかと思ったけど、ちゃんと女の子なんだなあ」
「莉子だって。いつ知り合ったのかしら……?」
「さすがのお姉ちゃんも、そこまでコントロールできなかったって?」

嫌みを言われて、香子は不機嫌を隠さずに睨み付けた。

「まあ莉子ちゃんなら、別人ですって言ってこの件は削除してもらうように頼むかあ。間に合うかなあ、無理かなあ。でももし莉子ちゃんが表に出たら、香子も困るんだろ? でも双子の妹がいるとは言わないと駄目だろうぜ?」
「別に、ゴーストライターがばれなきゃいいだけだけど?」
「それはアナウンスしなければ、ばれないんじゃないかー? まあこれによってスポットライトを浴びた莉子ちゃんが、調子に乗って自分がKKですなんて言い出す可能性は、無きにしもあらずかなあ、なんて思ってるけど?」

香子はあからさまに舌打ちした。

「あの子がそんな事するわけ……」

香子が知る莉子ならば、だ。

しかし、週刊誌に載る、その写真にある莉子の顔を見た。幸せそうに微笑んでいた、長身の尊を見上げ微笑むその姿は、いつも俯いて辛気臭い莉子とは別人だった。

「ま、とりま出版社に連絡だな。いやあ、ツアーも近いからわざと撮らせたのかなとも思ったんだよね、宣伝にさ。そうかそうか、莉子ちゃんか。好きな男の前だと、随分雰囲気が変わる……」
「──待って」

スマホを手にしようとした社長を止めた。

「私に考えがある、ちょっと任せてよ」
「でも今すぐ止めないと、発売されちまうよ?」
「いいわよ。そのイケメンがどこまでのイケメンか知らないけど、とりあえず、その記事を本当にしてやるわ」
「おいおいー」
「恋愛禁止なの?」

未成年ならばそんな規約もあるが、香子には適用されていない。しかも香子は社長の愛人である。

「そうじゃなくて……莉子ちゃんの彼氏だろ?」
「莉子のものは、私のもの」
「そんな事初めて聞いたぞ? つかじゃあ香子のものは、莉子ちゃんのものになんの? ならないだろ?」

橘の嫌みに香子は笑顔で応える、橘は額を押さえて溜息を吐いた。

「ほどほどにしておけよ? 本当に莉子ちゃんが反乱起こしたら、痛手なんだぞ?」
「その時は社長が慰めてあげたらいいじゃない。橘プロへの貢物にしてあげる」
「おいおい、俺だって良識はあるからな」
「どこがよ」

橘は肩を竦めた。

「おつまみ程度にしておけよ? 莉子ちゃんを守るとかなんとか言い訳して」
「はいはい、ガンバリマス」

適当に返事をして、衣装の上からコートを着た。もう帰る気満々だ。


***


翌日の夜、香子は尊の店、Le Bonheur(レ・ボナー)を訪ねた。店の事は事務所の女性は軒並み知っていた、元町のフレンチでイケメンと言えば、モザイクの意味などない程簡単なクエスチョンだと言っていた。

スチール製の階段をハイヒールの音を響かせて上がっていくと、ドアが内側から開いた。

「あれ、莉子さん、いらっしゃいませ」

ギャルソンエプロンの店員がにこやかに迎い入れた。

「──どうも」

返事はしたが、表情は硬くなるのが判る。

(ふうん……店員に名前で呼ばれるほどの関係か……付き合ってるのは本当なのね)

「お久しぶり、アーンド、珍しいですね、こんな時間に来るなんて」

それだけで、莉子が度々この店にやってきていると判った。

「(かち合わないで良かった)ええ、まあ……」

莉子がディナータイムには来たことがないなどとは知らない。
案内されたのは店の奥、半個室になっている席──いつも莉子が座っている席だとは当然知らない。

「今、オーナー呼んできますね」

店員の方から言った。

「ありがとう」

手間が省けるとも言えず、香子は大人しく待った。

数分もせずに、半個室の入り口に長身の男が立つ。白いコック服に黒いギャルソンエプロンを着た男は、香子を見て破顔した。モザイクの下の顔を初めて見たが、あの写真の人物に間違いないと判った。その凛々しい顔が笑みに崩れるその瞬間に、香子は不覚にもきゅんと心が締め付けられる。

「莉子、一人で来たのか?」

笑顔とは裏腹の少し怒った口調に、香子は内心焦る。

「え……あ……うん、ちょっとお腹空ちゃって……」
「ええ、仕方ねえなあ」

尊は店内の壁かけ時計を確認した、いつも莉子の家に行くのは10時頃、今は間もなくラストオーダーとなる19時過ぎだった。

「じゃあ、簡単なものでよかったら作ろうか?」
「うん……」

香子はトクトクとその場所を知らせ始めた心臓を感じた。
10分程で、尊は大きなプレートを持って現れる。

「はい、お待たせ」

香子の前にそのプレートを置いた。香子はいつも莉子が座るのとは反対側の、上座に座っていた。プレートを目した香子は、本当に空腹だったのだと思い出す。

「いただきます」

素直に挨拶をして、フォークとナイフを手にした。
尊はその目の前の椅子に腰かけ、その様子を見ている。いつもは莉子が座る椅子だ。
肉を一口食べ、サラダを頬張り、パンを口に含んだ。

「おいしい?」

尊が聞く。

「ええ、とても」

香子は素直に答えていた。

「──それ、何の肉か、判らない?」
「え? 鶏肉?」

もう一口を食べてから答えた、目の前の尊がにやりと意地悪く笑ったのに気づく。

「莉子はすぐに気付いたけどな」

その言葉を意味を、香子だって理解する。手を止め尊を見た。

「ウサギだよ。莉子は美味しいけど、もう食べたくないって言ってた。なのにあんたは平気なんだ」

尊は睨んでいる、先程まで見せていた柔らかい気配は微塵もなかった。

「──別に。取ってきて捌けと言わたら嫌だけど、こうして美味しく調理されてるならただの肉だわ」

言い放つ香子と尊の視線がぶつかる、互いの敵意を確認した瞬間だった。

「──で? 何の用?」

尊の声は不穏な空気を含んでいた。

「自己紹介くらいしなよ。莉子のお姉さん?」

その挑戦的な物言いに、香子も目を据えて睨み付けた。

「なによ、判ってたんなら最初から言えばいいじゃない」
「俺が莉子って声を掛けても否定しなかった、だから出方を見ようと思ってさ。なのにそのまましらっと食べ始めて。莉子になりすまして会いに来るなんて、どういうつもりだよ?」
「なりすましたつもりはないけど。勝手にそっちが勘違いしたんでしょ」
「別人なら否定すればいいだけだろ、莉子なら絶対否定する。いつもそうやってだまして遊んでたのか?」
「そんな事はしてないけど──」

それはそうだろうと思う。莉子は香子と同じであることを嫌がる。しかしも双子であるが故に、子供の頃から服も持ち物も、やる事まで同じであることを強制された。でも、ふと何故香子だと打ち明けなかったかを考えた、その答えは、意外にも明確だった。
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