うそつきす -嘘をついたらキスをされる呪い-
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向かったのは、特別教室棟の階段。屋上へ続く階段踊り場だ。普段生徒たちが使わない、ほこりとかびの混じった匂いが懐かしい。
春の、あれは剣淵と出会ってすぐの頃にもここへきた。あの時は剣淵にいわゆる壁ドンというものをされ、それを伊達に見られてしまったのだった。それを思い返し、くすりと笑ってしまうほど、昔のことのように思えてしまう。
佳乃が階段をのぼりきったところで、伊達が振り返った。
「急に呼び出してごめんね」
「大丈夫だよ。あのまま帰るところだったから」
「そっか。迷惑にならなくてよかった」
大事な話とは何だろうか。深刻な話を覚悟していたのだが、ふんわりと柔らかく微笑む伊達の姿が否定する。
「三笠さん、11年前の夏って覚えてる?」
伊達と再会してから、11年前の夏について互いに話したことはなかった。伊達が覚えていたことが嬉しく、佳乃は勢いよく何度も頷く。
「うんうん、覚えてる! あの夏に伊達くんと出会ったんだよね」
「……よかった。覚えていてくれたんだね」
「忘れるわけないよ。大切な思い出だもん。ちゃんと記憶に残ってる」
佳乃が答えると安堵したように伊達が笑った。そして、佳乃の方へ向かって階段をおりていく。
「不安だったんだ……三笠さんが夏のことを忘れていたら、って」
一段、また一段。その優雅な動きはまさしく王子様のようで、見惚れてしまう。
「忘れられていたらショックだから、ずっと伝えられなかったけど。でも三笠さんを誰にもとられたくないから、」
一段、また一段。近づく伊達に呼応して、佳乃の心臓も急いていく。
伊達が、佳乃だけを見つめて、佳乃の元へ向かってくる。
屋上へ至る扉の隙間から夕日が差し込み、ほこりをきらきらと映し出す。その中で二人だけ、きらきら輝く世界はまるで映画のワンシーンのようだった。
そして距離が近づいて、これ以上ないほど近くに伊達がいて――あれほど焦がれたまなざしが夕日に赤く染まって、佳乃だけを捉えている。
「……三笠さんが、好きだよ」
奇跡なのだ、と佳乃は思った。片思いが実って、結ばれることは奇跡。その希少な時間を佳乃は味わっている。
質素な階段踊り場が溶けてなくなってしまったみたいに、体がふわふわと浮き上がっている気がする。
伊達の言葉が鼓膜に焼き付き、頭の中で何度も何度も響いているのに、ひとつひとつの単語を噛み締めるのに時間がかかってしまう。
だからこれは夢で、現実ではないのかもしれないと疑ってしまうのだ。
佳乃の視界に伊達がいる。蕩けてしまうような甘い香りとその中心に伊達がいて、これは夢ではないよと示すように美しい微笑みを向けている。
「だ、伊達くんが……好きって、私を……?」
「そうだよ。ずっと三笠さんが好きだった」
「……嘘じゃ、ない、よね」
ゆるゆると震える唇が開き、佳乃の声は驚きに掠れていた。唖然としたその顔はかばんにつけたタヌキのキーホルダーみたいなまぬけな顔とよく似ていた。
「ふふ、僕って信用ないのかな。嘘じゃないよ、本当に三笠さんが好きなんだ」
伊達の指先が佳乃の肩に伸びる。優しくゆっくりとした動きと共に、伊達が聞いた。
「それで――僕は三笠さんの返事が聞きたいんだけど」
「へ、返事って、その」
「三笠さんは僕のことをどう思っているのかな、って」
何度も夢見た時間だった。こんな風に伊達と話して、告白をされて、付き合って――それが佳乃の抱いてきた片思いだったのだ。
それがいま、両想いだとわかっている。これ以上ない幸福だ。
だがなぜか――迷いが、ある。
あれほど好きだった伊達から告白されているというのに、伊達と付き合っている姿なんて想像できず、その道を選んでも佳乃が望むきらきらとした恋愛の幸福は得られない気さえしてしまう。
「……私は、」
伊達のことが好きだ。そう伝える練習なら夢の中で何度もしてきた。それなのに、どうして手が震え、正面に立つ伊達の顔を見られないのか。聞きたかったのはこの人の声ではないと警鐘が頭の奥で鳴っている。
別の人物を思い浮かべようと思考が巡り、しかし片思い続きに慣れた体が、伊達に応えてしまえと喜んでいる。
それでも、ずっと好きだったのは伊達享なのだから。
「私も伊達くんが好き」
長年抱いてきた片思いの末の、ずっと言いたかった言葉だ。