うそつきす -嘘をついたらキスをされる呪い-
ゆるゆると思考が巡りだす。通り過ぎた人たちの会話や伊達の頬、力強く握りしめた拳といったパズルのピースたちを繋ぎ合わせていく。そしてわかったことは――剣淵が、伊達を殴ったということだ。
「どうして……伊達くんを殴ったの……?」
まだパズルは完成していない。これ以上進めるにはピースが足りないのだと気づいた時、佳乃は自然とその問いを口にしていた。
冷たくて、寒くて。凍え死んでしまいそうなほど苦しい空間。言葉を発するのにも喉がかすれてうまく動かず、間違えた言葉を紡いでしまえば、一瞬にしてこの空気に殺されてしまう気がした。
それでも、この状況に背を向ける選択肢はない。
どうして殴ったのか。なぜここに剣淵と伊達がいるのか。様々な疑問が渦巻いて、佳乃の足を薄氷の上に縛りつけている。
「――っ、お前……」
佳乃の問いに対し、剣淵は戸惑って口を閉ざした。そこにあるのは深い落胆の色。固く握りしめていた拳もだらりと緩み、襟を掴まれていた伊達も解放された。
ようやく自由になったといえ、伊達の表情は苦しげに歪んでいる。げほげほと咳きこみながら、伊達が言う。
「三笠さん! 僕は大丈夫だから……ちょっと言い争いになっただけなんだ」
「でも……伊達くん、その顔……」
「平気だよ」
そこにいるのは普段通りの笑顔を浮かべる伊達、のはずなのに。伊達が紡ごうとする言葉に怯えて心臓がばくばくと不安に揺れている。
乱れた襟を整えながら伊達が立ち上がる。そして喧嘩していたとは思えない穏やかな声音で佳乃に言った。
「僕と剣淵くんの意見が合わなかっただけなんだ。確かに殴られたけど、これは僕が悪いんだ。だから剣淵くんを責めないであげて――ね?」
「う、うん……」
これ以上の詮索はするな、と突き放されているようだった。信頼している伊達が言うのだから、ちょっとした言い争いだったのだろう。剣淵は荒っぽいところがある。意見の相違によって手が出てしまったのかもしれない。
伊達を信じて、佳乃は頷く。案じていた心もこれで気が休まっていくだろうか――と思ったのだが。
「てめぇ! 勝手なこと言いやがって!」
納得した佳乃と異なり、剣淵の瞳は怒気でめらめらと燃えている。
怒鳴りつけながら再び伊達に手を伸ばす。もう一度襟を掴もうとした剣淵を、佳乃は止めていた。
「だめ」
「止めんじゃねーよ! バカ三笠!」
腕を掴んで止めようとするも男女の力の差は歴然で、佳乃の抵抗も剣淵には届いていない。
ここで止めなければ伊達が殴られてしまう。大きく息を吸い込むと佳乃は叫んだ。
「伊達くんを殴らないで!」
その声量は佳乃が思うよりも大きく、そして剣淵の動きを止めた。
「――っ……お前……」
「お願いだからっ! 伊達くんにそんなことしないで!」
剣淵に届いてほしい。そう願って追い打ちをかけるように叫べば、剣淵は固く握りしめた拳を震わせた後――肩の力がするりと抜けていった。
「……お前……いいのか、それで」
脱力し、うなだれる。ぽつりと呟いたその言葉は誰に向けたものかわからず、佳乃は答えることができなかった。
それよりも。腕を掴んでいた指先がしっとりと濡れていることが気になった。見れば剣淵は服が濡れていて、髪もいつものようにセットしていたのが崩れている。手に傘を持っている様子がないことから、雨に当たっていたのだろうか。いや、雨に当たっていたのだ。肌に伝わる温度はきんと冷えていて、傘もささずに雨の中を歩いてきたのではないかと佳乃は考えた。
「……もう、いい」
その間に、剣淵は一歩踏み出していた。うつむいたままで表情はわからなかったが、言い残した言葉がずっしりと重たいことから、想像してしまう。
また、傷ついた顔をしているのではないだろうか。
呪いが発動してキスをするたび、佳乃も剣淵も傷をつけあっていく。その時のように、苦しみとむなしさと、言葉にできない棘をかかえた顔。
佳乃と伊達に背を向けて剣淵が歩いていく。少しずつ離れていく距離に佳乃は手を伸ばした。
「ねえ、待っ――」
剣淵に向けた言葉はすべて言い切ることができなかった。伸ばしかけた手を伊達が掴んだからだ。優しく握りしめながら、伊達が言う。
「三笠さん。行こう」
「で、でも……あいつ……」
「剣淵くんのことは僕の問題だから。学校で会った時に話すよ。今日は僕も剣淵くんも頭を冷やした方がいい」
伊達に説得されても、心に突き刺さった棘が消えない。本当に追いかけなくていいのだろうか。悩んで決断できずにいる佳乃に、伊達が微笑んだ。
「僕は、三笠さんと一緒にいたいんだ。こんなことになっちゃったけどデートがしたいんだ、だめかな?」
だめだなんて、言えるわけがない。
偶然の出来事とはいえ、手を握りしめられて舞い上がりそうな気持ちになっている。そんな三笠佳乃に断れるわけはなく。
剣淵とは逆の方向へ向けて、伊達と佳乃が歩いていく。重なった手のひらは雨なんて忘れてしまうほど温かい。
楽しい、はずだったのだ。この日曜日を楽しみにしていた。
時間はかかったがようやく伊達と合流でき、これからがデート本番だというのに――どうして、ちくちくと胸が痛むのだろう。
雨が勢いを増していく。夕方は土砂降りになるかもしれないと告げていた天気予報は当たりそうだった。