恋じゃない愛じゃない
「おかあさん」
喉がずっと詰まっている感覚から、やっと声になる。
あの人も女の人も同時にわたしを見て驚いた顔をした。
「あなた、麗花さんまで連れて来てなにを考えているの!」と女の人が言う。彼女の口から自分の名前が出たことにびっくりした。そこまで知られているのかと。
「だって、ここは遊ばせるのにちょうどいいから、子供は無料だし」
「そういうことじゃなくて!」
幾度も強い口調で話す女の人と席を立ち屈んで床に落ちたお札を拾うあの人のテーブルに、「あの、お客様、大変申し訳御座いませんが……」と萎縮しながら店長らしき男の人がやって来る。店員は未だに立ち尽くしているし、ただごとではないと判断されたのだろう。
女の人は店長らしき男の人に、「騒いでごめんなさい、もう出ますので」と頭を下げる。「麗花さんのところに行ってあげて、ここは私が支払いますから」
「お母さん」
わたしはもう一度声を出す。さっきよりはましな声になった気がした。
「麗花、それも拾ってね」
屈んだまま、そうわたしに言うあの人は体を小さく丸めて、本当に小さくて、子供の自分が見ても弱々しい。
足元のお札を拾い、スカートのポケットに少し乱暴に突っ込み、思いっきりあの人の服を引っ張って、誰だかわからない女の人に頭を下げると、テーブルを離れた。
「麗花、服伸びるから離して」と言うあの人を無視して、早歩きで喫茶店の出口に向かう。
一刻も早くここから立ち去りたかった。
喫茶店を出ると、あの人はとうとう我慢の限界というように、もう! いい加減にして、と服を引っ張るわたしの手を払いのける。
あの人は少し疲れた顔をしながら、それでも微笑んで手を差し出す。帰り道は手を繋いで帰った。
あの人の手は、大きさはわたしと同じくらいだが、厚みがありながら柔らかく、少し汗ばんでいた。
「もうあの動物園には行っちゃ駄目よ」
「なんで?」
「麗花は4月から中学生でしょう」
それで無料じゃなくなるからよ、と考えれば、考えずとも、おかしな理由ではあったけど、あんなことがあったばかりのわたしはそれ以上疑問を口にする気にもなれず、素直に、わかった、と返事をした。
もっとも、あの動物園には小さい頃からずっと飽きるほど行っていたし、もうすぐ中学生のわたしは、動物園よりはアウトレットモールへ行きたいと思う年頃だったので、不満はなかった。
その夜、ポケットの中のお札を出し忘れ洗濯をしてしまい怒られることになる。
──ハッとする。
マグカップからスプーンを落としてしまったが、カーペットの敷かれた床の上では大した音はしなかった。
ホットケーキとメープルシロップ入り珈琲を食べ終え、思いっきり身体を伸ばした、身体が凝っていたことを実感する。
陽当たりの悪い部屋はあまり明るくはなく、窓から少し離れるだけで朝昼でも電灯の明かりが欲しくなる。
外から酔っぱらいの喧嘩か、男性同士の怒鳴り声がした。決して健全とはいえない環境、そんな場所の一室が、わたしの居場所。
「あら、レイカちゃんおはよう」
「おはようございます」
1階の小料理屋の前に並ぶ植木鉢に、女性がジョウロで水をあげていた。この店の女将さんだ。おそらく60代くらいの、細身の上品な雰囲気の人で、今はここから数キロ先にある娘夫婦の家に住んでいるが、こうして店の前で会ったりするたびに、にこりと笑って挨拶をしてくれる。
彼女の笑ったときに出来る目尻のしわは、老いよりもむしろ、優しくて素敵だなっと最初に会ったときから思う。
「レイカちゃんが、この花を喜んでくれるから毎日生きがいが出来たの。綺麗にして、新しい植木鉢も増やしてみたり。レイカちゃんみたいなかわいい子がいて花も元気になったわよね」
「花が元気なのは女将さんが毎日欠かさず世話をしているからですよ。わたしのほうこそいつも綺麗なお花を見せてくださりありがとうございます」
「嬉しいわ。下の、うるさいのはなれた? 大丈夫?」
「あ、全然大丈夫です」
「そうだレイカちゃん。煮物好き? 今の若い人は食べなれない?」
「好きです。それにわたし、こう見えて料理するんですよ」
「まあ! 偉いわね。お母さんがきっと料理上手なのねえ」
「……ああ、はい」
あの人の料理は、あまり覚えていない。
「あとで作って上に持って行ってもいいかしら」
「あ、今夜は出かける予定があって……」
すみません、と言うと女将さんはまた優しく笑う。
「いいのよーじゃあまた今度貰ってくれる?」
「はい、ぜひ」
喉がずっと詰まっている感覚から、やっと声になる。
あの人も女の人も同時にわたしを見て驚いた顔をした。
「あなた、麗花さんまで連れて来てなにを考えているの!」と女の人が言う。彼女の口から自分の名前が出たことにびっくりした。そこまで知られているのかと。
「だって、ここは遊ばせるのにちょうどいいから、子供は無料だし」
「そういうことじゃなくて!」
幾度も強い口調で話す女の人と席を立ち屈んで床に落ちたお札を拾うあの人のテーブルに、「あの、お客様、大変申し訳御座いませんが……」と萎縮しながら店長らしき男の人がやって来る。店員は未だに立ち尽くしているし、ただごとではないと判断されたのだろう。
女の人は店長らしき男の人に、「騒いでごめんなさい、もう出ますので」と頭を下げる。「麗花さんのところに行ってあげて、ここは私が支払いますから」
「お母さん」
わたしはもう一度声を出す。さっきよりはましな声になった気がした。
「麗花、それも拾ってね」
屈んだまま、そうわたしに言うあの人は体を小さく丸めて、本当に小さくて、子供の自分が見ても弱々しい。
足元のお札を拾い、スカートのポケットに少し乱暴に突っ込み、思いっきりあの人の服を引っ張って、誰だかわからない女の人に頭を下げると、テーブルを離れた。
「麗花、服伸びるから離して」と言うあの人を無視して、早歩きで喫茶店の出口に向かう。
一刻も早くここから立ち去りたかった。
喫茶店を出ると、あの人はとうとう我慢の限界というように、もう! いい加減にして、と服を引っ張るわたしの手を払いのける。
あの人は少し疲れた顔をしながら、それでも微笑んで手を差し出す。帰り道は手を繋いで帰った。
あの人の手は、大きさはわたしと同じくらいだが、厚みがありながら柔らかく、少し汗ばんでいた。
「もうあの動物園には行っちゃ駄目よ」
「なんで?」
「麗花は4月から中学生でしょう」
それで無料じゃなくなるからよ、と考えれば、考えずとも、おかしな理由ではあったけど、あんなことがあったばかりのわたしはそれ以上疑問を口にする気にもなれず、素直に、わかった、と返事をした。
もっとも、あの動物園には小さい頃からずっと飽きるほど行っていたし、もうすぐ中学生のわたしは、動物園よりはアウトレットモールへ行きたいと思う年頃だったので、不満はなかった。
その夜、ポケットの中のお札を出し忘れ洗濯をしてしまい怒られることになる。
──ハッとする。
マグカップからスプーンを落としてしまったが、カーペットの敷かれた床の上では大した音はしなかった。
ホットケーキとメープルシロップ入り珈琲を食べ終え、思いっきり身体を伸ばした、身体が凝っていたことを実感する。
陽当たりの悪い部屋はあまり明るくはなく、窓から少し離れるだけで朝昼でも電灯の明かりが欲しくなる。
外から酔っぱらいの喧嘩か、男性同士の怒鳴り声がした。決して健全とはいえない環境、そんな場所の一室が、わたしの居場所。
「あら、レイカちゃんおはよう」
「おはようございます」
1階の小料理屋の前に並ぶ植木鉢に、女性がジョウロで水をあげていた。この店の女将さんだ。おそらく60代くらいの、細身の上品な雰囲気の人で、今はここから数キロ先にある娘夫婦の家に住んでいるが、こうして店の前で会ったりするたびに、にこりと笑って挨拶をしてくれる。
彼女の笑ったときに出来る目尻のしわは、老いよりもむしろ、優しくて素敵だなっと最初に会ったときから思う。
「レイカちゃんが、この花を喜んでくれるから毎日生きがいが出来たの。綺麗にして、新しい植木鉢も増やしてみたり。レイカちゃんみたいなかわいい子がいて花も元気になったわよね」
「花が元気なのは女将さんが毎日欠かさず世話をしているからですよ。わたしのほうこそいつも綺麗なお花を見せてくださりありがとうございます」
「嬉しいわ。下の、うるさいのはなれた? 大丈夫?」
「あ、全然大丈夫です」
「そうだレイカちゃん。煮物好き? 今の若い人は食べなれない?」
「好きです。それにわたし、こう見えて料理するんですよ」
「まあ! 偉いわね。お母さんがきっと料理上手なのねえ」
「……ああ、はい」
あの人の料理は、あまり覚えていない。
「あとで作って上に持って行ってもいいかしら」
「あ、今夜は出かける予定があって……」
すみません、と言うと女将さんはまた優しく笑う。
「いいのよーじゃあまた今度貰ってくれる?」
「はい、ぜひ」