恋じゃない愛じゃない
「安田さんは苦手な食べ物やアレルギー、なにかあります?」
「ううん、とくにないよ」
「候補が3つあるんですけど……」
「じゃあここから一番距離が近いお店にしようか、残り2つはまた今度」
なに、次もあるようなこと言ってるんだろう……。
「あ、はい。それだと……、フレンチですね」
でも陽央くんは、わたしのその発言をスルーしたのか、気にも止めなかったようで胸を撫で下ろす。
フレンチ、か……小さいものがちまちまくるから満足感が全くない、なのに変にお腹いっぱいになって、実は少し苦手だったけれど、苦手なものがないと言ったばかりだし、さすがに空気を読み、「いいね」と頷く。
「実はここ、昔から家族で何度か食べに来てるんですよ」
レストランの外観を見上げ、彼は世間話の何気ない口調でそう告げた。
だが、わたしはそのレストランを見ると、ハッとして踵を返す。
「どこへ行くんですか」
しかし後ろから陽央くんに、わたしの手首など楽々まわってしまう長い指で、がっしりと掴まれては逃げられない。
「……冗談でしょう?」
「ここですよ」真っ直ぐにこちらを見下ろしながら、変わらない柔らかな表情で彼は言った。
え、と思わず声が漏れる。
漆黒なつくりのエントランスに照明が際立つ 、外観こそシンプルなここはたしか、お客の層も、動く金額も、桁違いで、芸能人やプロスポーツ選手、企業経営者など、いわゆる“超”富裕層御用達の会員制高級レストランのはずだ。
「待って、こういうところってきっとマナーも厳しいんでしょう。……わたし、ナイフとフォークは外側から使うってことしか知らない」
「それ覚えておけば、あとは良きに計らえ、ですよ。それくらいの気持ちで大丈夫です」
「いやいやいや、全然大丈夫じゃないって。しかもこんな……」
「その服似合ってるし、いまの安田さんとても綺麗だから、大丈夫」
わたしが敷居が高い店に戸惑い、服装の心配をしたことに気づいたのか、陽央くんはそう言って、手を差し出す。
その素振りはとても自然で、目の前の彼の手を取ると、不思議と気後れが薄まっていく。
重厚なマホガニーの扉の正面入り口でスーツ姿の男性が出迎えた。
「内金崎様、ようこそいらっしゃいました」
「こちら、冬木さん。昔からよくしてもらってるんですよ」
「申し遅れました。私、この店の支配人を務めさせていただいております、冬木と申します。よろしくお願いいたします」
と簡潔に言って、スーツ姿の男性は一礼をした。
ディレクトール、黒服のトップのメートルと厨房トップのシェフの上に立つ、総支配人。見るからにその細身の体が着ているスーツは上質なもので、端整に着こなし、品のいいネクタイが締められ、プレーントゥの革靴は顔が映りそうに磨かれていた。上から下まで、一分の隙もなく、優雅、という言葉がしっくりくる。
天井の高い店内、お洒落な内装。外見のシンプルさとは裏腹に、濃紺と白を基調とした個性的で美しい空間。
洗練された動きの黒服の人に個室へ案内されると、わたしは自分で思わず椅子を引いてしまいそうになるのを陽央くんに制止される。
慌てたが黒服の人がしっかりタイミングを見て、椅子を押してくれ、ゆっくり着席出来た。鞄は背もたれと自分の背中の間に置く。
それまで陽央くんは、自分の椅子の左側に待っていた。
「当レストランはお客様に味覚だけではなく五感全てが楽しむ最高の料理、時間、空間を提供いたします」
このレストランにいるのはウェイターではなくギャルソンだな、とわかるような高級レストランに行ったことは数少ないのだけれど、ここは正真正銘のギャルソンだろう。
「アペリティフ(食前酒)はいかがですか?」とギャルソンに訊ねられ、わたしは水を頼む。こういうところは水でもちゃんとお金を取る。水といっても、それはいわゆるミネラルウォーターで、ガス無しを選んだ。
「あのね、わたしマナーをよく知らないから間違っちゃうと思うの。だから……お手数ですが、注意していただけますか? それと、食事の注文は全てお任せしてもいいでしょうか、わたしが決めるのは無理そうです」
目の前の彼へ先に宣言して、わたしは肩の荷を降ろす。このようなお願いをするなど情けないことかもしれないが、見栄を張るつもりもない。
この場にいるのが彼でなければ、内面の焦りなど悟らせない笑顔で、必死に頭の中のどこかにあるマナー講座を引っ張り出し、相手に付き合うのかもしれないけれど。
「ええ。じゃあ、注文は僕がしますね。安田さんにこの場で求めるのは、楽しく食事をすること。それさえ守れるなら、細かいマナーなどさほど気にすることではないです」
「そう言ってもらうと、正直とても助かる。
すでに、緊張の所為で料理の味がわかるか心配だったんだよね」
「任せてください」
ワインを注文する際は赤と白どちらにするか陽央くんに問われ、白にした。なぜ白にしたかと言うと、緊張してもしも服に垂らしてしまっても赤よりは目立たないだろうから。
様々な予防線を張り巡らせる。
「じゃあ……、明るくて華やかなものを」
陽央くんは、そう一言告げるとワインリストを閉じた。
注文を全て終えたのか、ギャルソンがその場を離れ、2人きりになると、レストランの前に来たときから疑問が巻き起こるばかりのこの状況にわたしは意を決して尋ねた。
「陽央くんは、だれ?」
「ううん、とくにないよ」
「候補が3つあるんですけど……」
「じゃあここから一番距離が近いお店にしようか、残り2つはまた今度」
なに、次もあるようなこと言ってるんだろう……。
「あ、はい。それだと……、フレンチですね」
でも陽央くんは、わたしのその発言をスルーしたのか、気にも止めなかったようで胸を撫で下ろす。
フレンチ、か……小さいものがちまちまくるから満足感が全くない、なのに変にお腹いっぱいになって、実は少し苦手だったけれど、苦手なものがないと言ったばかりだし、さすがに空気を読み、「いいね」と頷く。
「実はここ、昔から家族で何度か食べに来てるんですよ」
レストランの外観を見上げ、彼は世間話の何気ない口調でそう告げた。
だが、わたしはそのレストランを見ると、ハッとして踵を返す。
「どこへ行くんですか」
しかし後ろから陽央くんに、わたしの手首など楽々まわってしまう長い指で、がっしりと掴まれては逃げられない。
「……冗談でしょう?」
「ここですよ」真っ直ぐにこちらを見下ろしながら、変わらない柔らかな表情で彼は言った。
え、と思わず声が漏れる。
漆黒なつくりのエントランスに照明が際立つ 、外観こそシンプルなここはたしか、お客の層も、動く金額も、桁違いで、芸能人やプロスポーツ選手、企業経営者など、いわゆる“超”富裕層御用達の会員制高級レストランのはずだ。
「待って、こういうところってきっとマナーも厳しいんでしょう。……わたし、ナイフとフォークは外側から使うってことしか知らない」
「それ覚えておけば、あとは良きに計らえ、ですよ。それくらいの気持ちで大丈夫です」
「いやいやいや、全然大丈夫じゃないって。しかもこんな……」
「その服似合ってるし、いまの安田さんとても綺麗だから、大丈夫」
わたしが敷居が高い店に戸惑い、服装の心配をしたことに気づいたのか、陽央くんはそう言って、手を差し出す。
その素振りはとても自然で、目の前の彼の手を取ると、不思議と気後れが薄まっていく。
重厚なマホガニーの扉の正面入り口でスーツ姿の男性が出迎えた。
「内金崎様、ようこそいらっしゃいました」
「こちら、冬木さん。昔からよくしてもらってるんですよ」
「申し遅れました。私、この店の支配人を務めさせていただいております、冬木と申します。よろしくお願いいたします」
と簡潔に言って、スーツ姿の男性は一礼をした。
ディレクトール、黒服のトップのメートルと厨房トップのシェフの上に立つ、総支配人。見るからにその細身の体が着ているスーツは上質なもので、端整に着こなし、品のいいネクタイが締められ、プレーントゥの革靴は顔が映りそうに磨かれていた。上から下まで、一分の隙もなく、優雅、という言葉がしっくりくる。
天井の高い店内、お洒落な内装。外見のシンプルさとは裏腹に、濃紺と白を基調とした個性的で美しい空間。
洗練された動きの黒服の人に個室へ案内されると、わたしは自分で思わず椅子を引いてしまいそうになるのを陽央くんに制止される。
慌てたが黒服の人がしっかりタイミングを見て、椅子を押してくれ、ゆっくり着席出来た。鞄は背もたれと自分の背中の間に置く。
それまで陽央くんは、自分の椅子の左側に待っていた。
「当レストランはお客様に味覚だけではなく五感全てが楽しむ最高の料理、時間、空間を提供いたします」
このレストランにいるのはウェイターではなくギャルソンだな、とわかるような高級レストランに行ったことは数少ないのだけれど、ここは正真正銘のギャルソンだろう。
「アペリティフ(食前酒)はいかがですか?」とギャルソンに訊ねられ、わたしは水を頼む。こういうところは水でもちゃんとお金を取る。水といっても、それはいわゆるミネラルウォーターで、ガス無しを選んだ。
「あのね、わたしマナーをよく知らないから間違っちゃうと思うの。だから……お手数ですが、注意していただけますか? それと、食事の注文は全てお任せしてもいいでしょうか、わたしが決めるのは無理そうです」
目の前の彼へ先に宣言して、わたしは肩の荷を降ろす。このようなお願いをするなど情けないことかもしれないが、見栄を張るつもりもない。
この場にいるのが彼でなければ、内面の焦りなど悟らせない笑顔で、必死に頭の中のどこかにあるマナー講座を引っ張り出し、相手に付き合うのかもしれないけれど。
「ええ。じゃあ、注文は僕がしますね。安田さんにこの場で求めるのは、楽しく食事をすること。それさえ守れるなら、細かいマナーなどさほど気にすることではないです」
「そう言ってもらうと、正直とても助かる。
すでに、緊張の所為で料理の味がわかるか心配だったんだよね」
「任せてください」
ワインを注文する際は赤と白どちらにするか陽央くんに問われ、白にした。なぜ白にしたかと言うと、緊張してもしも服に垂らしてしまっても赤よりは目立たないだろうから。
様々な予防線を張り巡らせる。
「じゃあ……、明るくて華やかなものを」
陽央くんは、そう一言告げるとワインリストを閉じた。
注文を全て終えたのか、ギャルソンがその場を離れ、2人きりになると、レストランの前に来たときから疑問が巻き起こるばかりのこの状況にわたしは意を決して尋ねた。
「陽央くんは、だれ?」