恋じゃない愛じゃない
「安田さんは、梨、好きですか?」
「うん。好きだよ」
「ならよかった。今夜のデザートは洋梨を使ったものなので」
「そうなんだ、洋梨も好きだから楽しみ」
和梨は甘酸っぱくて、瑞々しく、シャキシャキとしてて美味しいし、洋梨は豊潤な甘さと、ねっとりとした贅沢な食感が美味しい。
デザートは、ポワール・ベル・エレーヌ、という小ぶりな洋梨を丸ごと使ったメニューだった。洋梨のヘタを取らないで、本来は鍋に砂糖のシロップで煮てやわらく煮るものらしいが、ここでは、契約農園の上質な洋梨をコンポートにするのはもったいない、生の食感を味わってほしい、ということで、直前に剥いて贅沢に2分の1分をカソナードという、フランスの良質なサトウキビ100%から作られている、精製されていない砂糖で、キャラメリゼすると、お皿に盛り付けるときにビスケットの上に倒れないように置き、アイスを添え、その上から溶かした熱いチョコレートをかけた。目の前でとろりとろけるチョコレートがかけられ、洋梨に纏っていく光景はうっとりする。
チョコレートがどっしりとしているけれど、梨があっさりしていて、いくらでも入りそうだ。
「僕、これ大好きなんですけど、フランスでは梨って好き嫌いがわかれるみたいで、このデザートがメニューにあるところ少ないんですよ」
「カフェとかでも見ないね。もっと手軽に食べたいんだけど。……うちでは無理かな?」
「どうでしょう。多少手間がかかるものなので」
「ここまでのものを出すのはさすがに無理だろうけど、“風”なら出来るんじゃない? ポワール・ベル・エレーヌ風。洋梨の旬ってもうちょっと先だから試作期間あるし。期間限定で出すの。店長に案だけ伝えてみようかな」
「いいですね、そのときは僕も一緒に」
「うん、よろしく」
陽央くんは店長にも可愛がられているし、いけるかもしれない。
洋梨丸ごとは厳しいから、半分に割って、それを砂糖とワインでコンポートにすれば、アルコールは飛ぶから子供でも食べられるし、大人も楽しめる。いろいろ考えが浮かぶ。
その後に、プティフールとカプチーノが出た。このカプチーノがやたら美味しかった。
一息ついていると、陽央くんが意図したかのようなタイミングでスラックスのポケットから財布を取り出すと、開いて、中からなにかを抜き、テーブルの上へ置く。
紙切れのようなもの。
お札ではない。
それは、小切手だった。
見たことあるのは漫画やドラマの中だけで、実際には初めてだ。
まだなにも記入されてはいない。
『好きな金額を書きなさい』って言うんだ。漫画やドラマでは。
陽央くんは、それをわたしのほうへを差し出す。
ギャルソンが銀のペンを持ってくる。
「必要な額を書いてください。欲しい額でもいいです、幾らでも。お金があれば、安田さんはお母様との問題解決出来ますよね? これで解放されますよ。安田さんがお母様を離すのでなくて、お母様から離れてもらうんです。お金は振り込みでも、前園さん、あ、前園さんっていうのは内金崎家の使用人で信頼できる人ですから安心してください。直接渡したいのであればこちらでお母様の居場所を見つけ次第、車を出してお連れしますよ」
目の前にいる、この人は誰だろう。
まるで別人のようだ。いまや彼の態度は近寄りがたく独裁的で、他者を服従させることに関しては自分の権力を当然と考える男の態度だった。
なにを話しているか知らないが、声さえ違って聞こえ、さあ、と短く畳み掛ける言葉には、わたしがなれてしまった柔らかな声色はひとつもない。
「……目的は?」
「前に言いましたよね、僕は安田さんの役に立ちたいんです」
「じゃあ、言い方変える。条件はなに? タダで、……なわけないよね、信じないから。あなたにメリットがないもの」
「条件がなければ受け取ってくれないんですか?」
「そういうわけではないけど……」
「じゃあ、 僕は安田さんを買います。だから、安田さんは僕を飼ってください」
「……は? かう、……って、え、なに?」
「飼育の飼う、です。愛でる、なじる、雑用係にする、飼育方法は安田さんの好きにしてください」
陽央くんの考えていることが読めなくてわたしは眉を顰めた。
彼の真剣な表情から察するに、少なくともいい加減な気持ちで語っているわけではないだろう。
けれど、これはおかしいことだ。
「それが、あなたのメリットになるの」
「安田さんの役に立てますから」
内金崎陽央は、おかしい人だ。
「そう……」
そうとしか言えなかった。
テーブルの上の小切手を見る。
この紙切れが、わたしがペンを走らせることによって、何十、何百、何千にも化ける。
「わたしがもし6億円とか書いたらどうする? それに家にバレたらまずくない?」
小学生みたいなことを言った。6億円、スポーツくじのBIGと同じ。
「僕のプライベートマネーから出しますから、家は関係ありませんし、迷惑もかかりません。これでも僕、株式投資の素質だけはあったみたいで。一括は無理ですけど、毎月決まった一定の額を支払うというかたちになります」
不可能。という言葉は、ナポレオンにも陽央くんにもないらしい。
これで、あの人から解放される。
『安田さんがお母様を離すのでなくて、お母様から離れてもらうんです』
たしかにあの人は、わたしではなく、お金に執着しているだけかもしれない。
「さあ」
陽央くんがもう一度改めて書くように促してくる。
好きにしていいなら、解放されてお金を貰うだけ貰って(買われて?)、陽央くんの元から姿を消すのもアリ……いや、捨てるのは飼い主的にナシでしょう。
いくらわたしでも、それは良心の呵責に耐えられない。
ペンを持つ。
手が震える。
恐怖か、喜びか、はたまた武者震いか、自分で自分がわからなくなりながら、わたしは紙にインクをのせる。
「うん。好きだよ」
「ならよかった。今夜のデザートは洋梨を使ったものなので」
「そうなんだ、洋梨も好きだから楽しみ」
和梨は甘酸っぱくて、瑞々しく、シャキシャキとしてて美味しいし、洋梨は豊潤な甘さと、ねっとりとした贅沢な食感が美味しい。
デザートは、ポワール・ベル・エレーヌ、という小ぶりな洋梨を丸ごと使ったメニューだった。洋梨のヘタを取らないで、本来は鍋に砂糖のシロップで煮てやわらく煮るものらしいが、ここでは、契約農園の上質な洋梨をコンポートにするのはもったいない、生の食感を味わってほしい、ということで、直前に剥いて贅沢に2分の1分をカソナードという、フランスの良質なサトウキビ100%から作られている、精製されていない砂糖で、キャラメリゼすると、お皿に盛り付けるときにビスケットの上に倒れないように置き、アイスを添え、その上から溶かした熱いチョコレートをかけた。目の前でとろりとろけるチョコレートがかけられ、洋梨に纏っていく光景はうっとりする。
チョコレートがどっしりとしているけれど、梨があっさりしていて、いくらでも入りそうだ。
「僕、これ大好きなんですけど、フランスでは梨って好き嫌いがわかれるみたいで、このデザートがメニューにあるところ少ないんですよ」
「カフェとかでも見ないね。もっと手軽に食べたいんだけど。……うちでは無理かな?」
「どうでしょう。多少手間がかかるものなので」
「ここまでのものを出すのはさすがに無理だろうけど、“風”なら出来るんじゃない? ポワール・ベル・エレーヌ風。洋梨の旬ってもうちょっと先だから試作期間あるし。期間限定で出すの。店長に案だけ伝えてみようかな」
「いいですね、そのときは僕も一緒に」
「うん、よろしく」
陽央くんは店長にも可愛がられているし、いけるかもしれない。
洋梨丸ごとは厳しいから、半分に割って、それを砂糖とワインでコンポートにすれば、アルコールは飛ぶから子供でも食べられるし、大人も楽しめる。いろいろ考えが浮かぶ。
その後に、プティフールとカプチーノが出た。このカプチーノがやたら美味しかった。
一息ついていると、陽央くんが意図したかのようなタイミングでスラックスのポケットから財布を取り出すと、開いて、中からなにかを抜き、テーブルの上へ置く。
紙切れのようなもの。
お札ではない。
それは、小切手だった。
見たことあるのは漫画やドラマの中だけで、実際には初めてだ。
まだなにも記入されてはいない。
『好きな金額を書きなさい』って言うんだ。漫画やドラマでは。
陽央くんは、それをわたしのほうへを差し出す。
ギャルソンが銀のペンを持ってくる。
「必要な額を書いてください。欲しい額でもいいです、幾らでも。お金があれば、安田さんはお母様との問題解決出来ますよね? これで解放されますよ。安田さんがお母様を離すのでなくて、お母様から離れてもらうんです。お金は振り込みでも、前園さん、あ、前園さんっていうのは内金崎家の使用人で信頼できる人ですから安心してください。直接渡したいのであればこちらでお母様の居場所を見つけ次第、車を出してお連れしますよ」
目の前にいる、この人は誰だろう。
まるで別人のようだ。いまや彼の態度は近寄りがたく独裁的で、他者を服従させることに関しては自分の権力を当然と考える男の態度だった。
なにを話しているか知らないが、声さえ違って聞こえ、さあ、と短く畳み掛ける言葉には、わたしがなれてしまった柔らかな声色はひとつもない。
「……目的は?」
「前に言いましたよね、僕は安田さんの役に立ちたいんです」
「じゃあ、言い方変える。条件はなに? タダで、……なわけないよね、信じないから。あなたにメリットがないもの」
「条件がなければ受け取ってくれないんですか?」
「そういうわけではないけど……」
「じゃあ、 僕は安田さんを買います。だから、安田さんは僕を飼ってください」
「……は? かう、……って、え、なに?」
「飼育の飼う、です。愛でる、なじる、雑用係にする、飼育方法は安田さんの好きにしてください」
陽央くんの考えていることが読めなくてわたしは眉を顰めた。
彼の真剣な表情から察するに、少なくともいい加減な気持ちで語っているわけではないだろう。
けれど、これはおかしいことだ。
「それが、あなたのメリットになるの」
「安田さんの役に立てますから」
内金崎陽央は、おかしい人だ。
「そう……」
そうとしか言えなかった。
テーブルの上の小切手を見る。
この紙切れが、わたしがペンを走らせることによって、何十、何百、何千にも化ける。
「わたしがもし6億円とか書いたらどうする? それに家にバレたらまずくない?」
小学生みたいなことを言った。6億円、スポーツくじのBIGと同じ。
「僕のプライベートマネーから出しますから、家は関係ありませんし、迷惑もかかりません。これでも僕、株式投資の素質だけはあったみたいで。一括は無理ですけど、毎月決まった一定の額を支払うというかたちになります」
不可能。という言葉は、ナポレオンにも陽央くんにもないらしい。
これで、あの人から解放される。
『安田さんがお母様を離すのでなくて、お母様から離れてもらうんです』
たしかにあの人は、わたしではなく、お金に執着しているだけかもしれない。
「さあ」
陽央くんがもう一度改めて書くように促してくる。
好きにしていいなら、解放されてお金を貰うだけ貰って(買われて?)、陽央くんの元から姿を消すのもアリ……いや、捨てるのは飼い主的にナシでしょう。
いくらわたしでも、それは良心の呵責に耐えられない。
ペンを持つ。
手が震える。
恐怖か、喜びか、はたまた武者震いか、自分で自分がわからなくなりながら、わたしは紙にインクをのせる。