恋じゃない愛じゃない
グラスの飲み口を唇へと運ぶ。ぐっと傾ければ、冷たくも熱いアルコールの感触が喉に抜けていく。さすがにもう水でも飲ませることが正しい判断だろう。なにより、これ以上酔った彼のペースに呑まれてはいけない。

やわらかな茶髪を優しく撫でると、空になってしまったグラスを見つめ、しょんぼりと頭を下げていた陽央くんがゆっくりと顔を上げた。

そのままうっとりとわたしの肩を掴み、顔を寄せてくると、今度は反射的に顔をそらせて彼の唇を避けたら後ろにある、脱ぎ捨てた服の山にわたしは静かに押し倒される。頬に唇が押しつけられて、豊かな感触が電撃みたいにびりびり走る気がした。

押し倒された拍子に自分の髪が舞い上がり、一束だけ横断するように顔にかかる。声も出なかった。視界一色、陽央くんの顔で埋まる。

酔っているわりには子犬のような目はしっかりと現状を捉えていた。

こういうときはぼーっとするものだと思っていたが、逆だ。なんだか全てが明白に見える。家具の棚やテーブルの輪郭が、やけにくっきりしてる。それでいて世界がどこかよそよそしい。はみがきしたあとに水を飲んだときみたいに、キンと冷たい。

わたしは彼の頬をてのひらで包み、彼の顔を見つめた。こんな綺麗な顔をして、モテるだろうに、告白を断り続けている。彼はいつでもわたしが1番。

今度は避けずに顔を傾け、陽央くんのピンクの唇に唇をつけて、息を止めた。しばらく動きを止めて、それから離す。

「……なんでそんなうわの空なんですか?」

「そんなことないよ」

「だって……なんだか最近、いつもそんな表情(かお)してる。コンビニでも変だった。なにか、あった?」

心配げにこちらを覗いてくる瞳は、透明度100。綺麗なものだけを見て育ったら、こんな瞳になれるのだろうかと、ふと思う。

「なんでもないよ」

そうやって、誤魔化しの言葉を投げる。彼ならすぐに嘘だと気づいてしまうとわかっていても、それでもわたしは嘘を吐いた。

嘘だ、と彼は抗議の声を上げた。半ば非難を交えた視線がわたしを射抜く。そんなにまじまじと見られたら照れてしまう、などと歯の浮くようなセリフで、彼の関心を遠ざけようとする。

胸の内が外に零れていかないように、感情が勘違いを起こさないように、わたしは心を厚い厚い壁で覆った。

起き上がって陽央くんの下から抜け出す。「そんなに酔ってて出来るの?」しわくちゃになったの布団のシーツのしわを伸ばしながら、真っ直ぐ彼の瞳を見つめる。無垢なその瞳に向かって、わたしはもう一度、なんでもないよと笑った。

「なんでもなく……ない」

でも彼は優しくて、そんなわたしの決意を揺さぶる一言を簡単に口に出してしまう。

そしてわたしは陽央くんに腕を取られ、彼の胸に、顔を埋めることになる。

「なにか悩みごとがあるんだったら、話してほしい。話して楽になることだったらいくらでも僕を使ってくれていいし、話して辛くなるようなことだったら、なにをしてほしいか言ってほしい。そうやって、自分の悩みは自分だけのものだなんて態度……取らないでほしい」

わたしの背中をぽんぽんと数回叩いた。やっぱりは優しいなぁと、顔を見られていないことをいいことに、声も出さずにわたしは笑った。

優しくて、残酷だ。

背中に回る彼の腕には、彼からの愛情が込められている。もしわたしがここで、誰のものにもならないで、わたしだけのきみでいて、と吐き出してしまえば、彼はそれに応えてくれると思う。相思相愛とは言わずとも、告白をきっかけに互いの愛を深め、恋人のような関係になることも、不可能ではないだろう。

そうすればわたしと彼の距離は近くなる。互いの姿がもっと見えてくる。その先にあるものを、わたしは怖がっている。

陽央くんを見れば見るほど、わたしは自分がいかに足りない存在か知ることになる。いまはそれに憧れて、そして好きになって。きっと、いま以上にはっきりと彼を見てしまえば、憧れるだけじゃ済まなくなる。嫉妬、羨望といった汚い感情が心の奥の澱んだ場所から湧き上がってくるのだ。
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