恋じゃない愛じゃない
刺身盛り合わせを前に、陽央くんはわたしの手元を見ながら、「安田さんは、ワサビってどのくらい混ぜますか?」と聞いてきた。

「わたしあんま辛いのやだからこんくらいかな、少ないの」

「こんくらいかぁ」

そう言い陽央くんも真似して、お醤油に同じくらいの分量のワサビをといている。

なんだこの可愛さ、罠か。

わたしの隣に座る人はいつも、ハズレの席だ、という表情するのに、陽央くんはしない。

目に付いたのは可愛さだけではない。

箸の持ち方がとても綺麗だ。顔に似合わず大きな手の親指と中指が、しっかりと箸を支えて包み込み、握り込んだりせず、箸を交差させたりもしないその持ち方に目が吸い寄せられる。

つい見入ってしまい、陽央くんがわたしの視線に気が付くと同時に、「持ち方綺麗だね」と口に出ていた。

彼の顔が一瞬、えっ、と困惑に満ちたあと、すぐにボンッと茹で上がるように顔を赤く染めた。着こなしている赤パーカーに負けないくらいの赤だった。

「あっ、ありがとうございます。これは、あの、親がめちゃくちゃ厳しかったので……。意外と持ち方って見られてて、持ち方ひとつで姿勢や食べ方の印象も変わるし、育ちを疑われ兼ねなくて、時として収入や学歴よりも箸が正しく持てるほうが人を判断ポイントになるからって」

そう陽央くんは戸惑いを隠せないといったように、箸を閉じたり開いたりを繰り返し、少しうつ向き加減で話す。

「へぇ、そうなんだ」

「いま初めて両親に感謝してます」

かと思えば、なんて、どういう意味なのか、にこにこしながら言った。

「……安田さんも、綺麗ですね、お箸の持ち方」

なぜか彼は恥ずかしそうに言った。わたしは隣で首を捻る。

『てかお前さ、箸の持ち方が汚いんだよね』
高校のとき、初めて出来た彼氏に言われた最後の言葉をふと思い出す。

今さら言うなよ。ずっと我慢してたのかよ。それくらいのことで別れるの? 言いたいことは山ほどあった。しかし、わたしはもうそんな反論の気力もなく、ただ悲しみと後悔だけをエネルギーにして、その場に立ち尽くすのみだった。

それからその足で東急ハンズに走り、矯正箸を買って、泣きながらひたすら大豆を摘まんで練習したことは、刺身に乗っている菊に匹敵する苦さだ。あの頃は若かった。

そんな自分も、今年で23になる。

ほかの人の空いたグラスがわたしの前に集まりだしているのを見て、溜息を吐きそうになって、やめる。

「まあ、ポテト食べる? 冷めてるけど」

フライドポテトがまばらで、マヨネーズが先になくなってしまい、ケチャップだけの皿を彼に差し出すと、「僕むしろ冷めてふにゃふにゃになったやつのほうが好きなんです!」と嬉しそうにひょろりと長いフライドポテトをつまんで、申し訳程度のケチャップを付けると端からもぐもぐ、2本3本と、口の中へと入れ、食べていく。小さく出した舌を塩っぽくなった指に這わせる。

「……ケチャップ、付いてるよ」

わたしの指摘で口元のケチャップに気付いた彼は、親指で拭うとペロリと舐めとる。紅い舌が扇情的に動く。その様子に、ごくり、とはしたなく喉が鳴ってしまった。

陽央くんはおしぼりで指先を拭いながら、唇を舐めて、 その唇が、ゆっくりと小さく弧を描く。

ぞくぞくと震えが来る。無意識にやっているのなら、相当タチが悪い。
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