朧月
- 12:30 a.m. -
「はぁ…」
「なに、丹波。悩み事?」
「ううん。それより、私に聞きたいことって?」
こてんと首を傾げると、私の言葉で目的を思い出したらしい同僚が「ああ」と声を洩らす。
ランチタイム真っ只中の今、私たちは会社近くの洋食屋さんに繰り出していた。
あの後終ぞ課長は戻って来なくて。恐らくCEOと会食なんじゃないか、なんて社内では憶測が飛び交っている。
「そうそう。有馬課長のことなんだけど」
「っ、!」
思わず水を吹き出し掛けてしまう私。冷や汗を掻きながら冷静さを取り繕っていれば、「大丈夫?」と言葉を重ねた彼女は続けて口を開く。
「左手薬指のリング無くなってるじゃん。アンタに聞けば何か分かるかと思って」
――そう。課長はあの一件以来、ずっとその指先を飾っていたシルバーシングを外してしまっていた。
対する私は臆病なまま。周りから揶揄されることを恐れて、変化を怖れて卓也との"約束の証"を取り払うことが出来ずに居る。
当の本人への気持ちはもう、とうの昔に吹っ切れていたのに。本心では指輪なんて外して、課長へ気持ちを伝えたいのに…私は本当に意気地なしだ。
「ちょっと丹波、聞いてる?」
彼女の呼び掛けでハッと我を取り戻す。そうだ、課長はモテるんだ。今こうして燻《くすぶ》っている間にも、社内の誰かが彼の心を射止めてしまうかもしれない。
「…ごめん、何にも知らないや。それにしても課長、モテるなぁ」
「私じゃないんだけどね。後輩がしきりに聞いてくるもんだから、人肌脱いでやろうかと思って」
カラリ、嵩を減らした水が動き氷がぶつかる音がする。
ずっと立ち止まったままの私のことなんてお構いなしに、どんどん時は、周りは変化してゆく。進んで行ってしまう。
「有馬課長。CEOに呼ばれたってことは、栄転か何かかもねー」
何気なく音にされた彼女の言葉が、最後に思い切り私の背中を押した気がした。