朧月
「無事に終わってよかったです」
「本当に助かったよ」
じゃあ、私はこれで失礼します。
そう言って足早に退社しようとしたところで気づく。
――…急いで家路についたところで、私はひとりだ。
そんな現実を突きつけられた途端、体いっぱいに虚無感が広がってゆく。
おかえり、と迎えてくれる声も。
お疲れ、と労《ねぎら》う笑顔も。
抱きしめてくれる腕も。
優しいキスも。
今の私には何もない。
「丹波さん、今から少し時間ある?」
ふと、私の俯いた頭上にかかった声。
帰宅の準備ができたらしい有馬課長はカバンを手に取ると、左腕につけた男性用のシックな時計を見ながら言う。
「ご飯、行かない?」
残業してくれたお礼に奢るよ、と。
顔を上げた先の有馬課長は、にこやかな笑顔の裏に少しの疲労を残していた。