小さな傷
「おはよう。」

金曜日の夜がうそのようにさわやかに挨拶された。

「おはようございます。」

なんとなく目を見れなかった。

昼休みから戻ると机にメモがあり、室長室に来るように彼から指示があったと律美さんの字で書かれていた。

『まさか室長室で・・・』

金曜の夜を反芻してよからぬことを考えてしまった。

「失礼します。」

「あぁ、お疲れさま。わざわざ呼び出してすまないね。かけて」

ソファーを勧められて座ると彼は正面に座り、じっと私を見つめた。

「後悔は・・・ない?」

少し意味がわからなかったが、もう一度頭の中で今の言葉を反復する。

「あ、いえ、後悔とかは・・・別に。」
「そう。俺は・・・後悔していないよ。」

彼の眼がキラキラしていた。

「いけないこととはわかっている。でも、後悔はしていないし、君を大事にしたいと思っている。」
「室長・・・。」

「いや、君が嫌なら断ってくれていいんだ。そうすればもう誘わない。」
「・・・・・・。」

「だいたい。いい年した妻子持ちが、」
「シッ!」

立ち上がって彼の唇に人差し指を当てた。

キョトンとして彼の動きが止まる。

「いいんです。無理はしないで。わたし・・・好きなんです。室長のこと。」
「え?」

「だから、金曜日は私が誘ったんです。こうなりたいって思って。だから後悔もしてませんし、それに・・・。」
「・・・・・。」

「これ以上は何も求めません。ただ、時々食事に誘ってくれて、少しだけ・・・愛してくれれば。それでいいんです。」

素直な気持ちだった。

もともとわかっていて妻子のいる人を好きになった。

この土日、自分なりに真剣に考えた。

『略奪愛』『一度の過ちと身を引く』『いっそ彼を殺して自分も』・・・様々なシチュエーションを得意の妄想で何度もシミュレーションした。

その結論が今の言葉だった。

何も求めない。

結婚はもちろん、恋人でもないし、でも、ただの上司と部下でもない。

彼の気が向いたときに食事に誘ってもらい、体を抱いてほしい。

ただ、それだけだった。

今思うと23歳の小娘がよくそんな風に考えられたと思う。

けっこう大人だったのかもと我ながら感心する。

「本当にそれでいいの?」
「はい。」

私の”愛人”デビューの瞬間だった。

でも、彼は本当に卒なく、私に嫌な思いをさせる(奥さんの影がみえるような行為)は一切なく、二人でいるときは本当に二人だけの時間を提供してくれた。

「できる男」

彼は公私ともにパーフェクトだった。


でも、別れは突然に来るものだ。

「転勤?」
「あぁ、ブラジルだと。」

彼からそのことを私の家のベッドの中で聞いた。

彼ほどの優秀な人材を秘書室長で留めておくなんてことは会社が許すわけがない。

頭ではわかっていたし、いつかこういう日が来ることは覚悟していたつもりだった。

でも、私の女の部分は納得していなかった。

「もう、会えなくなる?」
「確かに遠いけど・・・ずっと帰って来ないわけじゃないし。」

「単身?」
「いや、家族も・・・行くよ。」

「そう。」

今思うとその言葉を聞いた時に私の心は決まっていた気がする。


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