小さな傷
伊村梨花(イムラ リカ)の場合
「おはよ。」
「あぁ、お姉ちゃん、おはよ。」
私が朝食のトーストの一口目あたりに姉が起きてくる。
いつも通りの朝の光景。
父は既に家を出て今頃は都内行きのライナー電車に座って一眠りしている頃だ。
「じゃあ、戸締りお願いね!」
そう言うと勢いよく玄関のドアが開け放たれる。
母の出勤も1分のズレもない。
朝食を済ますと、次にトイレを済まし、予め玄関に置いておいたカバンをひったくるように持って家を出る。
姉は唯一自宅から車で15分のスーパーの事務職のため、戸締りは彼女の仕事と決まっている。
私は今年38歳、都内の割と大きな会社に勤めている。
でも、肩書きはアルバイト社員。
とはいうものの、既に12年目のベテランだ。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
「おはよう。」
同僚や上司と朝の挨拶を交わす。
いつも通りの一日が始まる。
私の仕事は経理や部内の会議スケジュール等管理をすることだ。
自分で言うのもなんだが、12年も務めているだけあって仕事ぶりはテキパキしていて上司からの信頼も厚いと自負している。
その証拠に歴代の課長からは何度か正社員にならないかと誘いを受けたこともある。
しかしその度にその申し出を断っている。
それには明確な理由がある。
実は私の趣味は旅行だ。
それも海外旅行が多い、さらにその旅行はどちらかと言うとあまりメジャーな場所ではなく人が行かないような秘境や社会主義国家などに行くことが多い。
しかも、ほとんどは姉と2人か、一人旅で行く。
女の一人旅で行くようなところでは無い。
そのため会社には旅行に行く時、行き場所を告げる事はほとんどない。
一度旅行に行く時に、上司に行き先を尋ねられ
「キューバに行きます。」
と言うと相当に心配された。
「親御さんは知っているのか」
とか
「やっぱりやめたほうが」
などしつこく言われた。
それ以来、どこへ行くか聞かれても「ちょっと」とか言って誤魔化している。
姉も変わり種だ。
歳が二つしか違わないためか、小さい頃からとても仲が良く、めったにケンカもしなかったし、大人になってからは一度たりとも争った事はなかった。
そして旅行好きという趣味も合っていて、仕事の休みを合わせては、一緒に旅行に行っている。
もちろん行先は秘境や日本人が好んでいかないところだ。
少し説明が、長くなったが、つまり、旅行に行くために長期の休みをもらう。
そのためには正社員だと制限があり長期の休みを取ることができない。
だから、正社員にはなる気がなかった。
「梨花ちゃん、お昼行く?」
「はい、行きます!」
誘ってくれたのは部署の重鎮53歳の浮田さん。
キャリア31年目のベテラン経理係だ。
家族は夫と息子が一人。
結婚が遅く、お子さんが年齢の割にはまだ高校1年生だ。
性格はきつい。
以前入ったばかりのアルバイト社員に、相当辛く当たって、辞めさせた。
でも、なぜか私のことは気に入ってくれているようで、いつもお昼は一緒だ。
「あ、私もいきまーす。」
こちらは44歳の大塚さん。
この人は結婚しているが、子供はいない。
しかも旦那が海外に単身赴任中。
たいてい昼はこの3人に時によって一人二人加わる。
「ったく、課長の今日のネクタイ見たぁ?」
「見た見た。センスのかけらもないわ。」
「でしょー。奥さん少しはなんか言わないのかしらね。」
「言わないわよ。うちだって言わないもの。きっとうちの旦那も会社で女子社員に『センスないわ』っていわれてるわきっと。」
「あははは、そんで『奥さんは見ないのかしら』とか言われてるかもね。」
「だよねー。あははは。」
典型的なおばさんの会話。
話題といえば会社や上司の悪口、別の課の女子社員の悪口、それとありえない恋バナ(妄想のみ)ばかりだ。
でも、私はいつもニコニコしながらその会話を聞いている。
心の中ではものすごく馬鹿にしてるけど、表面的には興味ありそうに、楽しそうに聞いている。
それが、こういう会社の女子社員の中で生きていくための処世術だ。
「そう言えば、新しく来た、えっとぉなんだっけ、総務の男の子。」
「あぁ、滝澤君ね。あのイケメン。」
「梨花ちゃんどうよ?」
突然振ってきた。
「えぇ?どうって?」
「またまたぁ、男としてどうってことよ。」
「男として・・・ですか?」
「そうよ。確か年齢は32って言ってたわよ。まだ独身だし。背は高いし、仕事もそこそこできそうじゃない。」
「・・・・・。」
「それに言葉遣いに品があるわ。優しそうだしね。」
「梨花ちゃん年下は?」
「え?年下ですか?あんまり考えたことないです。」
「そうぉ、でも、ほら平均寿命からいって男のほうが6年くらい早く死ぬから、6歳くらい年下でもいいんじゃない。」
「はぁ、でも、わたしやっぱり男性は年上のほうがいいかなぁって。」
「何言ってんの、梨花ちゃんより年上じゃ、もうおっさんよ。」
少しカチンときた。
でも、顔には出さず。
「まぁ、そりゃそうですけど。おじさんだっていいかなぁって。」
「だめだめ、子供がかわいそうよ。お母さんはまだしもお父さんが周りのパパよりおっさんじゃ、引け目感じるわよ。」
思わず、運動会で(将来の)息子と(将来の)パパが二人三脚をしてるけど、パパがおっさん過ぎてついていけず転んでいる姿を想像してしまった。
大塚さんも追い打ちをかける。
「ぜったい若い男のほうがいいって。うちなんか8つも上でしょ。もう本当にじじいよ。
あっちのほうだってもうずーっとご無沙汰。やんなっちゃう。」
あっちってどっち?
そういう悩みもあるんだと改めて考えさせられた。
「だからさ、滝澤君に決めちゃいなよ。」
いやいや、こっちで勝手に決められない。
「結構梨花ちゃんにお似合いよ。」
大塚さんも被せてくる。
「何なら私が言ってあげようか。」
余計なことするなよ、おばさん。
「いやぁ、流石に急過ぎます。」
「んーそっか、そりゃそーか。」
笑いながら浮田さんが言う。
「そーだね。」
大塚さんも被せて言う。
「でさぁ、この間、駅前のパン屋に行ったらさぁ…。」
既に話題が変わっている。
これがこの人たちの会話のパターン。
さほど、自分たちに興味のない話を終わらそうとする時決まって使うパターンだ。
つまり、私の恋愛や結婚なんかに興味はないということである。
昼休みから戻ると机にメモが置いてあった。
『課長がお呼びです。戻ったら席に来るように、とのことです。』
課長から呼び出しなんて、なんだろう?
まさか人員整理の為の肩たたき?!
そう言えば今期の業績はあまり芳しくないと噂は聞いている。
「課長、お呼びでしょうか。」
「おぉ、伊村さん、ちょっと時間をもらえるかな。」
「あ、はい。」
「じゃあ、会議室で話そうか。」
「えっ、あ、はい、わかりました。」
課長はそう言うと他の社員に会議室の空きを確認させ、空いていた会議室で私と面談するからと言付けて
「伊村さん、C会議室だ。」
そう言って足早に先に向かった。
『なになになにぃ!やっぱリストラ?』
大抵の事には動じない私だが、流石に首とか言われたら青ざめる。
「失礼します。」
課長が先に入っていた会議室にノックして入った。
「どうぞ。悪いね。忙しいとこ、時間をもらって。まぁ、そちらに掛けて。」
促されて、ロの字型の会議机に課長と90度になる形で座った。
「伊村さん、今年でうちに来て何年になるんでしたっけ?」
「えっ?あー12年になります。」
「そうですか、アルバイト社員としては長いですね。」
むむむ、長いアルバイト社員を切るってことか…。
「あまり話が長くなると他の社員から、セクハラとか言われたら困るから単刀直入に言いますね。」
キタァーーーーー。
「正社員になりませんか?」
「えっ?」
考えてた言葉と違ったため、一瞬言葉を失った。
「えーと、正社員ですよ、正社員」
「はぁ…。」
まだ、反応できないでいる。
「まだ、その気、ありませんか?」
「あ、急なお話だったんで、頭がついていってませんでした。」
「伊村さんは、確か以前にも、前任の課長から正社員の打診を受けて、断られてますよね。」
「はい…。」
「理由は何なんですか?」
「とても、ありがたいお話ではあるのですが…。」
「……。」
「私なんかに正社員が務まるか自信がないんです。」
「その点は大丈夫です。この半年私はあなたを見てきましたが、下手な正社員より、よっぽど仕事できますし、何より気遣いができる人ですから、充分資格はあります。」
「そうでしょうか。」
「大丈夫です。採用試験受けてみませんか?」
課長の勧めに一日だけ考えさせてほしいと言ってその場は返事を保留した。
本音は自信がないわけではなく、自由が無くなるのが嫌だったのだか、まさか本心を言うわけにもいかなかったので、ああ言って誤魔化した。
それに改めて考えると潮時かもしれない。
旅行のための長期休暇が気軽に取れなくなるのは、ちょっと抵抗があるが、入社した頃と比べると会社も有休も取るように勧めていて、一週間くらいの休暇を取る社員も増えている。
それに、この先独身で何時迄もアルバイト身分では、親も心配するだろうし、きちんと仕事をしている証さえ作れば、少しは安心するだろう。
私は正社員登用試験を受けることにした。
ひと月後、試験を受けた。
一応筆記試験もあり、あとは面接だった。
本社から人事課長も出てきて試験官をしていた。
さらにひと月後、見事(?)合格、来年の4月から正社員として採用され、入社式にも参加していわゆる新人研修も受けるらしい。
昼休み、例の二人の格好の餌食になったのは私の正社員登用のことだった。
「よく、合格したわねーおめでとう!」
大塚さんが祝いの言葉を言ってくれた。
「ほんと、すごいわ、今の入社試験、私、絶対落ちるわ。よく受かったね。おめでとう!」
浮田さんも褒めてくれた。
ここまでは、よかったのだか…。
「でも、何で今更正社員になろうと思ったの?」
大塚さんが聞く。
「そうそう、給料は上がるかも知れないけど自由が無くなるから、梨花ちゃんの好きな長期旅行が行けなくなるし、あまりメリットないんじゃない?」
浮田さんもつっこむ。
確かにその通りだか、二人と違って独身の私は将来設計をあんたたち以上に真剣に考えなきゃいけないのよ。
だが、そんな事を言えば、魚に水状態になることは目に見えていたので
「長くアルバイトでしたけど、やはり身分が不安定ですから、そろそろ親を安心させてあげないとって思って。」
「えらいわー梨花ちゃん。親思いで。うちの子どもにも爪垢飲ませたいわ。」
うまくかわせたようだ。
「じゃあ梨花ちゃんはこの会社に骨を埋めるつもりなのね」
骨を埋める…
大袈裟な表現と思ったが正社員になったということは究極、そういうことだと改めて思わされた。
40歳という年齢を前に、そろそろ落ち着かないと、というくらいの気持ちで正社員のオファーを受けてしまったが、果たしてよかったのか。
長期休暇が取れないといった短絡的なことじゃなく、この会社で働き、金を貰い、週に2日の休日(時々祝日)で少しだけ息をついて。
そのサイクルを20年あまり繰り返す。
今更だけど、これでよかったんだろうか。
「あぁ、お姉ちゃん、おはよ。」
私が朝食のトーストの一口目あたりに姉が起きてくる。
いつも通りの朝の光景。
父は既に家を出て今頃は都内行きのライナー電車に座って一眠りしている頃だ。
「じゃあ、戸締りお願いね!」
そう言うと勢いよく玄関のドアが開け放たれる。
母の出勤も1分のズレもない。
朝食を済ますと、次にトイレを済まし、予め玄関に置いておいたカバンをひったくるように持って家を出る。
姉は唯一自宅から車で15分のスーパーの事務職のため、戸締りは彼女の仕事と決まっている。
私は今年38歳、都内の割と大きな会社に勤めている。
でも、肩書きはアルバイト社員。
とはいうものの、既に12年目のベテランだ。
「おはようございます。」
「おはようございます。」
「おはよう。」
同僚や上司と朝の挨拶を交わす。
いつも通りの一日が始まる。
私の仕事は経理や部内の会議スケジュール等管理をすることだ。
自分で言うのもなんだが、12年も務めているだけあって仕事ぶりはテキパキしていて上司からの信頼も厚いと自負している。
その証拠に歴代の課長からは何度か正社員にならないかと誘いを受けたこともある。
しかしその度にその申し出を断っている。
それには明確な理由がある。
実は私の趣味は旅行だ。
それも海外旅行が多い、さらにその旅行はどちらかと言うとあまりメジャーな場所ではなく人が行かないような秘境や社会主義国家などに行くことが多い。
しかも、ほとんどは姉と2人か、一人旅で行く。
女の一人旅で行くようなところでは無い。
そのため会社には旅行に行く時、行き場所を告げる事はほとんどない。
一度旅行に行く時に、上司に行き先を尋ねられ
「キューバに行きます。」
と言うと相当に心配された。
「親御さんは知っているのか」
とか
「やっぱりやめたほうが」
などしつこく言われた。
それ以来、どこへ行くか聞かれても「ちょっと」とか言って誤魔化している。
姉も変わり種だ。
歳が二つしか違わないためか、小さい頃からとても仲が良く、めったにケンカもしなかったし、大人になってからは一度たりとも争った事はなかった。
そして旅行好きという趣味も合っていて、仕事の休みを合わせては、一緒に旅行に行っている。
もちろん行先は秘境や日本人が好んでいかないところだ。
少し説明が、長くなったが、つまり、旅行に行くために長期の休みをもらう。
そのためには正社員だと制限があり長期の休みを取ることができない。
だから、正社員にはなる気がなかった。
「梨花ちゃん、お昼行く?」
「はい、行きます!」
誘ってくれたのは部署の重鎮53歳の浮田さん。
キャリア31年目のベテラン経理係だ。
家族は夫と息子が一人。
結婚が遅く、お子さんが年齢の割にはまだ高校1年生だ。
性格はきつい。
以前入ったばかりのアルバイト社員に、相当辛く当たって、辞めさせた。
でも、なぜか私のことは気に入ってくれているようで、いつもお昼は一緒だ。
「あ、私もいきまーす。」
こちらは44歳の大塚さん。
この人は結婚しているが、子供はいない。
しかも旦那が海外に単身赴任中。
たいてい昼はこの3人に時によって一人二人加わる。
「ったく、課長の今日のネクタイ見たぁ?」
「見た見た。センスのかけらもないわ。」
「でしょー。奥さん少しはなんか言わないのかしらね。」
「言わないわよ。うちだって言わないもの。きっとうちの旦那も会社で女子社員に『センスないわ』っていわれてるわきっと。」
「あははは、そんで『奥さんは見ないのかしら』とか言われてるかもね。」
「だよねー。あははは。」
典型的なおばさんの会話。
話題といえば会社や上司の悪口、別の課の女子社員の悪口、それとありえない恋バナ(妄想のみ)ばかりだ。
でも、私はいつもニコニコしながらその会話を聞いている。
心の中ではものすごく馬鹿にしてるけど、表面的には興味ありそうに、楽しそうに聞いている。
それが、こういう会社の女子社員の中で生きていくための処世術だ。
「そう言えば、新しく来た、えっとぉなんだっけ、総務の男の子。」
「あぁ、滝澤君ね。あのイケメン。」
「梨花ちゃんどうよ?」
突然振ってきた。
「えぇ?どうって?」
「またまたぁ、男としてどうってことよ。」
「男として・・・ですか?」
「そうよ。確か年齢は32って言ってたわよ。まだ独身だし。背は高いし、仕事もそこそこできそうじゃない。」
「・・・・・。」
「それに言葉遣いに品があるわ。優しそうだしね。」
「梨花ちゃん年下は?」
「え?年下ですか?あんまり考えたことないです。」
「そうぉ、でも、ほら平均寿命からいって男のほうが6年くらい早く死ぬから、6歳くらい年下でもいいんじゃない。」
「はぁ、でも、わたしやっぱり男性は年上のほうがいいかなぁって。」
「何言ってんの、梨花ちゃんより年上じゃ、もうおっさんよ。」
少しカチンときた。
でも、顔には出さず。
「まぁ、そりゃそうですけど。おじさんだっていいかなぁって。」
「だめだめ、子供がかわいそうよ。お母さんはまだしもお父さんが周りのパパよりおっさんじゃ、引け目感じるわよ。」
思わず、運動会で(将来の)息子と(将来の)パパが二人三脚をしてるけど、パパがおっさん過ぎてついていけず転んでいる姿を想像してしまった。
大塚さんも追い打ちをかける。
「ぜったい若い男のほうがいいって。うちなんか8つも上でしょ。もう本当にじじいよ。
あっちのほうだってもうずーっとご無沙汰。やんなっちゃう。」
あっちってどっち?
そういう悩みもあるんだと改めて考えさせられた。
「だからさ、滝澤君に決めちゃいなよ。」
いやいや、こっちで勝手に決められない。
「結構梨花ちゃんにお似合いよ。」
大塚さんも被せてくる。
「何なら私が言ってあげようか。」
余計なことするなよ、おばさん。
「いやぁ、流石に急過ぎます。」
「んーそっか、そりゃそーか。」
笑いながら浮田さんが言う。
「そーだね。」
大塚さんも被せて言う。
「でさぁ、この間、駅前のパン屋に行ったらさぁ…。」
既に話題が変わっている。
これがこの人たちの会話のパターン。
さほど、自分たちに興味のない話を終わらそうとする時決まって使うパターンだ。
つまり、私の恋愛や結婚なんかに興味はないということである。
昼休みから戻ると机にメモが置いてあった。
『課長がお呼びです。戻ったら席に来るように、とのことです。』
課長から呼び出しなんて、なんだろう?
まさか人員整理の為の肩たたき?!
そう言えば今期の業績はあまり芳しくないと噂は聞いている。
「課長、お呼びでしょうか。」
「おぉ、伊村さん、ちょっと時間をもらえるかな。」
「あ、はい。」
「じゃあ、会議室で話そうか。」
「えっ、あ、はい、わかりました。」
課長はそう言うと他の社員に会議室の空きを確認させ、空いていた会議室で私と面談するからと言付けて
「伊村さん、C会議室だ。」
そう言って足早に先に向かった。
『なになになにぃ!やっぱリストラ?』
大抵の事には動じない私だが、流石に首とか言われたら青ざめる。
「失礼します。」
課長が先に入っていた会議室にノックして入った。
「どうぞ。悪いね。忙しいとこ、時間をもらって。まぁ、そちらに掛けて。」
促されて、ロの字型の会議机に課長と90度になる形で座った。
「伊村さん、今年でうちに来て何年になるんでしたっけ?」
「えっ?あー12年になります。」
「そうですか、アルバイト社員としては長いですね。」
むむむ、長いアルバイト社員を切るってことか…。
「あまり話が長くなると他の社員から、セクハラとか言われたら困るから単刀直入に言いますね。」
キタァーーーーー。
「正社員になりませんか?」
「えっ?」
考えてた言葉と違ったため、一瞬言葉を失った。
「えーと、正社員ですよ、正社員」
「はぁ…。」
まだ、反応できないでいる。
「まだ、その気、ありませんか?」
「あ、急なお話だったんで、頭がついていってませんでした。」
「伊村さんは、確か以前にも、前任の課長から正社員の打診を受けて、断られてますよね。」
「はい…。」
「理由は何なんですか?」
「とても、ありがたいお話ではあるのですが…。」
「……。」
「私なんかに正社員が務まるか自信がないんです。」
「その点は大丈夫です。この半年私はあなたを見てきましたが、下手な正社員より、よっぽど仕事できますし、何より気遣いができる人ですから、充分資格はあります。」
「そうでしょうか。」
「大丈夫です。採用試験受けてみませんか?」
課長の勧めに一日だけ考えさせてほしいと言ってその場は返事を保留した。
本音は自信がないわけではなく、自由が無くなるのが嫌だったのだか、まさか本心を言うわけにもいかなかったので、ああ言って誤魔化した。
それに改めて考えると潮時かもしれない。
旅行のための長期休暇が気軽に取れなくなるのは、ちょっと抵抗があるが、入社した頃と比べると会社も有休も取るように勧めていて、一週間くらいの休暇を取る社員も増えている。
それに、この先独身で何時迄もアルバイト身分では、親も心配するだろうし、きちんと仕事をしている証さえ作れば、少しは安心するだろう。
私は正社員登用試験を受けることにした。
ひと月後、試験を受けた。
一応筆記試験もあり、あとは面接だった。
本社から人事課長も出てきて試験官をしていた。
さらにひと月後、見事(?)合格、来年の4月から正社員として採用され、入社式にも参加していわゆる新人研修も受けるらしい。
昼休み、例の二人の格好の餌食になったのは私の正社員登用のことだった。
「よく、合格したわねーおめでとう!」
大塚さんが祝いの言葉を言ってくれた。
「ほんと、すごいわ、今の入社試験、私、絶対落ちるわ。よく受かったね。おめでとう!」
浮田さんも褒めてくれた。
ここまでは、よかったのだか…。
「でも、何で今更正社員になろうと思ったの?」
大塚さんが聞く。
「そうそう、給料は上がるかも知れないけど自由が無くなるから、梨花ちゃんの好きな長期旅行が行けなくなるし、あまりメリットないんじゃない?」
浮田さんもつっこむ。
確かにその通りだか、二人と違って独身の私は将来設計をあんたたち以上に真剣に考えなきゃいけないのよ。
だが、そんな事を言えば、魚に水状態になることは目に見えていたので
「長くアルバイトでしたけど、やはり身分が不安定ですから、そろそろ親を安心させてあげないとって思って。」
「えらいわー梨花ちゃん。親思いで。うちの子どもにも爪垢飲ませたいわ。」
うまくかわせたようだ。
「じゃあ梨花ちゃんはこの会社に骨を埋めるつもりなのね」
骨を埋める…
大袈裟な表現と思ったが正社員になったということは究極、そういうことだと改めて思わされた。
40歳という年齢を前に、そろそろ落ち着かないと、というくらいの気持ちで正社員のオファーを受けてしまったが、果たしてよかったのか。
長期休暇が取れないといった短絡的なことじゃなく、この会社で働き、金を貰い、週に2日の休日(時々祝日)で少しだけ息をついて。
そのサイクルを20年あまり繰り返す。
今更だけど、これでよかったんだろうか。