小さな傷
一年後
「伊村さん、ちょっといいですか。」
課長から呼ばれた。
「失礼します。」
一年前、正社員を打診された同じ会議室だった。
「ああ、忙しいところ悪いですね。座ってください。」
あの時と同じように課長と90度の形で座った。
「正社員になってだいぶ慣れましたか?」
「あ、はい、おかげさまで。もっとも仕事の内容は変わらないのでそれほど大変なこともなく済んでいますから。」
「そうですか…、実はお願いがあって。」
「お願いですか…」
「はい、今回も単刀直入に言います。」
「……。」
「西支店に転勤していただけませんか。」
「え?西支店…ですか。」
うちはある程度の規模の会社だから全国に支店はある。
西支店は都内の中で本社に次ぐ規模の支店だ。
「はい、そこに、経理課の責任者として赴任して欲しいんです。」
「えっ?」
一瞬何を言われているのかわからなかった。
『責任者?』
頭の中で繰り返した。
「責任者…ですか?」
「はい。課長…経理課長として赴任してほしいんです。」
「ちょっと待ってください。私まだ新入社員です。」
「そうですね。社歴で言えばそうなりますが、経理の仕事はもう12、いや13年のベテランです。」
「確かにそうですが、いきなり課長は変です。」
こちらも単刀直入に返した。
「そうでしょうか。前にもいいましたが、あなたの仕事ぶりはアルバイト社員の頃から
下手な正社員よりよほど優秀でした。」
「……。」
「実は私が正社員を勧めた時にはすでにこの構想は考えていました。」
「えっ?」
「正社員登用後、一年内には西支店に課長として赴任してもらおうと考えてました。」
「おっしゃっている意味がわからないです。」
「仕事ぶりはすでにベテランの域で責任者としても充分力はあると思っています。うちの支店は規模としては西支店よりは小さいですが、売り上げ的には見劣りしません。その経理を切り盛りしてくれているのですから、充分会社のことをわかっていただいています。」
「西支店は確かに大きな支店で仕事のやりがいもあると思います。それにプライベートなことで恐縮ですが、今より通勤時間も短くなりますから、転勤自体はお受けしてもよいのですが、流石に責任者は荷が重いです。」
「…そうですね。確かに荷は重いと思います。現に私が課長としてやってますが、荷は重いです。」
そう言って課長はにっこり笑った。
「でも、大変失礼な言い方ですが、あなたのねん…いや、キャリアなら課長になっていても不思議はありません。最近は我が社でも女性の管理職は増えてます。」
「でも、いきなり課長は変です。せめて係長とか…。」
「いえ、あなたの実力は課長級です。今でも私より他のメンバーをしっかり見てますし、サポートしてます。課長として充分通用すると思います。」
「でも…。」
言い訳を考えながら、言葉を発したが、すぐに遮られた。
「今すぐ答えを出さなくてもいいです。来週の月曜までに返事をください。もちろん断っても今の待遇を変えることはないですから、安心してください。」
そう言うと課長はスッと立ち上がり会議室を後にした。
私はしばらく立ち上がれず、頭の中の整理がつかなかった。
家までの帰り道、揺られている電車の中で考えた。
今まで自分が仕事で身を立てるなんて考えてもいなかった。
仕事はあくまで、生活の糧、もっと言えば実家暮らしの自分としては好きな旅行の資金作りのための手段でしかなかった。
なのに、降って湧いたような出世話に戸惑わないほうがおかしい。
でも、もしかすると、これは自分に与えられた使命なのか?
大袈裟だが、この運命の流れに乗ってみるのもアリかもしれない。
仕事自体は嫌いじゃないし、むしろこの13年、仕事には真面目に取り組んでいたからそれなりにスキルも身につけたし、下手な社員よりできる自信はある。
それに課長は言いかけてやめたが本当は"キャリア"じゃなくて"年齢"と言いたかったんだろう。確かにうちの会社は実力主義の面もあって力があると認められると三十代でも課長職についている。
もし、神さまが『やってみろ』というなら、自分の力を試してみたい気もする。
翌日
「課長少しよろしいですか。」
「お、ええ、大丈夫ですよ。あちらにいきましょうか。」
そう言うと課長は先導して会議室に向かった。
「で、思ったより早かったですが、結論は出ましたか?」
「はい。」
「聞かせていただけますか。」
「はい。今回のお話…。」
「……。」
「謹んでお受けします。」
「そうですか。やってみてくれますか。うん、ありがとう。」
「あ、いえ、お礼を言うのは私です。」
「いや、よく、決断してくれましたね。正直五分五分と思ってたのですが、思ったよりお返事が早かったので、ダメかとも思ってました。」
「本当に悩みましたが、これも何か自分の運命か、とも考えて思い切って挑戦してみようと思いました。」
「そう言っていただけてよかったです。では、早速本社に連絡をして来月人事発令をして再来月から西支店に赴任の方向で調整しますね。」
そう言うと課長は嬉しそうに会議室を後にした。
緊張がフッと溶けて、会議室の椅子からすぐに立ち上がれなかった。
本当にこれでよかったのか…一瞬戸惑いを感じたが、すぐに気を取り直し立ち上がって会議室を出た。
「梨花ちゃんお昼行く?」
「あ、はい、行きます。」
いつものように浮田さんから声がかかった。
「あ、私も。」
大塚さんがついてくる。
日常の風景。
二人がいつも通りおしゃべりをしながら、エレベーターホールに向かう背中を見ながら考えた。
ここから定年まで20年、今まで自分の選択肢にはなかった"仕事"を真面目にやってみるのもいいかもしれない。
「梨花ちゃん…。」
考えごとをしていた私に浮田さんが声をかけてきてフッと我に帰る。
「あ、はい。」
「なんか、今日…顔がキリッとしてるわね。」
了
「伊村さん、ちょっといいですか。」
課長から呼ばれた。
「失礼します。」
一年前、正社員を打診された同じ会議室だった。
「ああ、忙しいところ悪いですね。座ってください。」
あの時と同じように課長と90度の形で座った。
「正社員になってだいぶ慣れましたか?」
「あ、はい、おかげさまで。もっとも仕事の内容は変わらないのでそれほど大変なこともなく済んでいますから。」
「そうですか…、実はお願いがあって。」
「お願いですか…」
「はい、今回も単刀直入に言います。」
「……。」
「西支店に転勤していただけませんか。」
「え?西支店…ですか。」
うちはある程度の規模の会社だから全国に支店はある。
西支店は都内の中で本社に次ぐ規模の支店だ。
「はい、そこに、経理課の責任者として赴任して欲しいんです。」
「えっ?」
一瞬何を言われているのかわからなかった。
『責任者?』
頭の中で繰り返した。
「責任者…ですか?」
「はい。課長…経理課長として赴任してほしいんです。」
「ちょっと待ってください。私まだ新入社員です。」
「そうですね。社歴で言えばそうなりますが、経理の仕事はもう12、いや13年のベテランです。」
「確かにそうですが、いきなり課長は変です。」
こちらも単刀直入に返した。
「そうでしょうか。前にもいいましたが、あなたの仕事ぶりはアルバイト社員の頃から
下手な正社員よりよほど優秀でした。」
「……。」
「実は私が正社員を勧めた時にはすでにこの構想は考えていました。」
「えっ?」
「正社員登用後、一年内には西支店に課長として赴任してもらおうと考えてました。」
「おっしゃっている意味がわからないです。」
「仕事ぶりはすでにベテランの域で責任者としても充分力はあると思っています。うちの支店は規模としては西支店よりは小さいですが、売り上げ的には見劣りしません。その経理を切り盛りしてくれているのですから、充分会社のことをわかっていただいています。」
「西支店は確かに大きな支店で仕事のやりがいもあると思います。それにプライベートなことで恐縮ですが、今より通勤時間も短くなりますから、転勤自体はお受けしてもよいのですが、流石に責任者は荷が重いです。」
「…そうですね。確かに荷は重いと思います。現に私が課長としてやってますが、荷は重いです。」
そう言って課長はにっこり笑った。
「でも、大変失礼な言い方ですが、あなたのねん…いや、キャリアなら課長になっていても不思議はありません。最近は我が社でも女性の管理職は増えてます。」
「でも、いきなり課長は変です。せめて係長とか…。」
「いえ、あなたの実力は課長級です。今でも私より他のメンバーをしっかり見てますし、サポートしてます。課長として充分通用すると思います。」
「でも…。」
言い訳を考えながら、言葉を発したが、すぐに遮られた。
「今すぐ答えを出さなくてもいいです。来週の月曜までに返事をください。もちろん断っても今の待遇を変えることはないですから、安心してください。」
そう言うと課長はスッと立ち上がり会議室を後にした。
私はしばらく立ち上がれず、頭の中の整理がつかなかった。
家までの帰り道、揺られている電車の中で考えた。
今まで自分が仕事で身を立てるなんて考えてもいなかった。
仕事はあくまで、生活の糧、もっと言えば実家暮らしの自分としては好きな旅行の資金作りのための手段でしかなかった。
なのに、降って湧いたような出世話に戸惑わないほうがおかしい。
でも、もしかすると、これは自分に与えられた使命なのか?
大袈裟だが、この運命の流れに乗ってみるのもアリかもしれない。
仕事自体は嫌いじゃないし、むしろこの13年、仕事には真面目に取り組んでいたからそれなりにスキルも身につけたし、下手な社員よりできる自信はある。
それに課長は言いかけてやめたが本当は"キャリア"じゃなくて"年齢"と言いたかったんだろう。確かにうちの会社は実力主義の面もあって力があると認められると三十代でも課長職についている。
もし、神さまが『やってみろ』というなら、自分の力を試してみたい気もする。
翌日
「課長少しよろしいですか。」
「お、ええ、大丈夫ですよ。あちらにいきましょうか。」
そう言うと課長は先導して会議室に向かった。
「で、思ったより早かったですが、結論は出ましたか?」
「はい。」
「聞かせていただけますか。」
「はい。今回のお話…。」
「……。」
「謹んでお受けします。」
「そうですか。やってみてくれますか。うん、ありがとう。」
「あ、いえ、お礼を言うのは私です。」
「いや、よく、決断してくれましたね。正直五分五分と思ってたのですが、思ったよりお返事が早かったので、ダメかとも思ってました。」
「本当に悩みましたが、これも何か自分の運命か、とも考えて思い切って挑戦してみようと思いました。」
「そう言っていただけてよかったです。では、早速本社に連絡をして来月人事発令をして再来月から西支店に赴任の方向で調整しますね。」
そう言うと課長は嬉しそうに会議室を後にした。
緊張がフッと溶けて、会議室の椅子からすぐに立ち上がれなかった。
本当にこれでよかったのか…一瞬戸惑いを感じたが、すぐに気を取り直し立ち上がって会議室を出た。
「梨花ちゃんお昼行く?」
「あ、はい、行きます。」
いつものように浮田さんから声がかかった。
「あ、私も。」
大塚さんがついてくる。
日常の風景。
二人がいつも通りおしゃべりをしながら、エレベーターホールに向かう背中を見ながら考えた。
ここから定年まで20年、今まで自分の選択肢にはなかった"仕事"を真面目にやってみるのもいいかもしれない。
「梨花ちゃん…。」
考えごとをしていた私に浮田さんが声をかけてきてフッと我に帰る。
「あ、はい。」
「なんか、今日…顔がキリッとしてるわね。」
了