小さな傷
上田春子(ウエダ ハルコ)の場合
「調子はどう?」
「ボチボチかな…」
実家に着くと毎回母と同じ会話から入る。
「おぉ、春子、お帰り。」
ダイニングの椅子に腰掛けて新聞を見ながら、少し老眼鏡をずらして声を掛けてくる父の姿もいつも通り。
「お茶でいいかい?」
「うん。」
そう言ってダイニングの子どもの時からの私の定位置に腰掛けて一連のルーティンが完結する。
「そういえば、先週春子が帰ったあとにさ…。」
ここからは母が一方的に留守中の出来事を語り出す。
私は今年53歳、母は81歳、父は83歳、典型的な老齢家庭。
しかも私は独身。
今まで一度も結婚をしたことはない。
父や母も45歳くらいまでは
「誰かいい人はいないのかい。」
と事あるごとに言っていたが、妹が結婚して初孫ができてからは一切言わなくなった。
八つ下の妹は、ちゃんと三十代前半に結婚をして子どもも二人できたから父や母も孫には恵まれたので、それで満足したのかもしれない。
私の結婚はもう諦めたみたいだ。
妹は旦那さんの仕事の都合で今は北海道に家族といて、正月以外実家に帰省することはないため、年老いた父母の面倒は必然的に私がみることになっている。
とはいえ私もこの春に転勤になり、今は住み慣れた大阪の地を離れ東京で一人暮らしになったため、週末だけ大阪は泉佐野市の実家に帰るようにしている。
転勤仕立ての頃は、年老いた両親から離れたことがなかったので、心配もあり、毎週帰らないと気が済まなかったが、単身赴任になり五カ月、最近少ししんどく感じるようになってきた。
私は今の東京赴任まではずっと実家暮らしだった。
いや正確には地元大阪の外語大学を出て今の会社に新卒で入り、現場経験を積んで三年経った時アメリカの支社への赴任を命じられた。
私も血気盛ん?な二十代前半、学んできた語学を生かしたいと入社当初から海外赴任は希望をしていたので、アメリカ赴任の辞令は望むところだった。
両親は今まで私を手放したことがなかったこともあり、相当心配していて、見送りの際は今生の別れかと言うくらい、両親して泣き崩れた。
さらには一年も経たないうちにアメリカまで両親揃って会いにきた。
少し呆れていたが、両親の私に対する愛情の深さを改めて感じた。
でも、アメリカでの私の充実した生活を目の当たりにして、少し安心したようで、その後は月に一回手紙を寄越すくらいのことで済むようになった。
そのアメリカ生活も3年が経ち、凱旋?帰国することになった私は、再び大阪の本社勤めになり、実家に戻ることになった。
両親はことの外喜び、帰国時は親戚中に声をかけて宴会まで開く始末だった。
でも、誰かが待っててくれることはやはり嬉しいことで、両親には深く感謝をした。
だから、今はそのあと年老いた両親の面倒を見ることは当然と思っていた。
しかし、ある日突然それはやってきた。
「お帰り、外は寒かったろう。」
「あ、お母さん、うん、寒かったよ」
「せやろ、ちょっとコンビニ行くんでも、気ぃつけなあかんよ」
「え?あ、うん。」
少し違和感を感じたが、それほど気にはしなかった。
しかし、夕食のあと、母が
「春ちゃん、今日の晩は何食べたい?」
一瞬言葉を失い、次に背筋に悪寒が走った。
そして、昼過ぎに東京から帰ってきた時の母の言葉を思い出した。
「ちょっとコンビニ行くんでも、気ぃつけなあかんよ。」
母は私が東京から帰ってきたという認識はなく、ちょっとコンビニにいっていたと思っていた。
いや、そもそも私がこの家から離れて暮らしていることを認識していないのだ。
母が休んだあと、まだ起きていた父に尋ねた。
「気ぃついたか…つい2カ月前からや、ちょっとずつ話が噛み合わなくなった。」
「病院は?」
「本人は何とも思っとらんのや、病院なんか連れて行かれへんわ」
「そんな…あかんやろ、ちゃんと診てもらわな。」
「診てもらって治るんかい。」
吐き捨てるように父は言った。
「医者で治るんやったらとっくに診せてるわ」
「……」
「医者で…認知症言われたら…どうすりゃいい?」
「……」
「え!どうすりゃいいんか、おまえはわかるんかい!」
父のこんなに動揺する姿を見るのは初めてだった。
父も床についたあと台所のテーブルに座ってお茶を飲んだ。
何時もならこの瞬間、家に帰ってきたという安堵感が湧き、全身からフッと力が抜けてホッとするはずなのに、今日は全身から緊張が解けない。
「認知症…」
呟いて改めてその言葉の重みを感じた。
でも、今は色々な薬も開発されて完治は出来ないが進行を遅らせることはできると聞いたことがある。
それに薬に頼らない脳トレのような療法で元の自分を取り戻したという話もネットの記事で読んだことがある。
父の絶望感は理解できるが、このまま何もせずにはいられない。
翌朝、父を説得してまずは病院に連れて行くことになった。
会社に事情を説明して、そのまま月曜日に有休をとって日曜日にネットで調べて信頼出来そうな病院をいくつか見つけ、第一候補から電話をしてみた。
一番良さそうと思った病院はその日はすでに予約で埋まってしまい、最短でも来週の月曜からしか予約は取れないと言われた。
一瞬諦めようかと思ったが、そこをセカンドオピニオンと考えて来週の月曜の予約を入れた。
次に第二候補の病院に電話をしたところ、午後の診療なら空きがあると言われすぐにお願いした。
母には病院に行くと言っても嫌がられるかもしれないと思い、私の健康診断に行くついでに買い物をしようと誘い出した。
「え?なんで私まで検査をするん?」
「あー、ほら、母さん最近健康診断とかしてないでしょ?さっき病院の先生に聞いたら空きがあるから、お母さんもついでに受けたらって言われたの。」
我ながらむちゃくちゃな理由づけだとは思ったが、案外母は素直に健康診断なら受けると言った。
これもひょっとすると普通ならおかしいと感じることが、認知症のためにそういう感覚が鈍っているのかもしれない。
病院の先生には受付時の問診表に母親には病気のことは知らせずに連れてきたことを書いておいたため、先生も上手に対応してくれた。
一通り目やのどや首の辺りを診るフリをして、次に
「では、上田さん、今から言う言葉を覚えてください。」
先生は3つの関連性はなさそうだが、簡単な単語を並べた。
そのあと、少しだけ母に雑談を持ちかけ、その直後に
「ところで上田さん、さっき私が言った3つの単語を順番に言ってみてください。」
「え?あ、えーと…んー、なんでしたっけ?最近物忘れがひどくて」
と言って母は力なく笑った。
その姿を見て私は全身から血の気が引いた。
しかし、顔には一切表情を出さなかった。
「ただいま。」
「おぉ、お帰り、どうだった!」
玄関に入るなり父が血相を変えて尋ねてきた。
「ちょっとお父さん、あとで」
そう言って遅れて入ってきた母の方を顎で示した。
少しうなだれて父は居間に戻った。
母が居間でテレビに夢中になったところで、父を台所に呼び出しダイニングに座ってお茶を淹れた。
「やっぱり…認知症の可能性は高いって。」
「……」
「まだ、初期みたいだから、薬や療法で進行を遅めることはできるみたいだけど、やっぱり止めることや治すことはできないって。」
父が震えているのがわかった。
「何も…」
「え?なに?」
「何も悪いことはしてへんのに。」
「……」
「なのに、なんで母さんなんや…そんな理不尽あってええのか!」
急に大声でテーブルを叩く
「ちょっとお父さん、やめて。お母さんが変に思うでしょ」
しかし母は音に気付きチラッとこちらを見ただけですぐにテレビに向き直って大声で笑いだした。
「あれでも、進行は始まったばかりなんか?」
父がやり切れない思いでいっぱいいっぱいになっていることを感じた。
「お父さん、まずはお父さんが冷静になって、お母さんを少しでもお母さんのままでいられるように治療を始めよ。」
本当は私も父同様机を叩いてなぜた!と叫び泣きわめきたかった。
どんなに進行を遅らせても認知症の末路はわかっていたから、余計にやり切れない気持ちが湧いていたが、父に先を越されてしまったため、結局なだめ役にまわってしまった。
「ボチボチかな…」
実家に着くと毎回母と同じ会話から入る。
「おぉ、春子、お帰り。」
ダイニングの椅子に腰掛けて新聞を見ながら、少し老眼鏡をずらして声を掛けてくる父の姿もいつも通り。
「お茶でいいかい?」
「うん。」
そう言ってダイニングの子どもの時からの私の定位置に腰掛けて一連のルーティンが完結する。
「そういえば、先週春子が帰ったあとにさ…。」
ここからは母が一方的に留守中の出来事を語り出す。
私は今年53歳、母は81歳、父は83歳、典型的な老齢家庭。
しかも私は独身。
今まで一度も結婚をしたことはない。
父や母も45歳くらいまでは
「誰かいい人はいないのかい。」
と事あるごとに言っていたが、妹が結婚して初孫ができてからは一切言わなくなった。
八つ下の妹は、ちゃんと三十代前半に結婚をして子どもも二人できたから父や母も孫には恵まれたので、それで満足したのかもしれない。
私の結婚はもう諦めたみたいだ。
妹は旦那さんの仕事の都合で今は北海道に家族といて、正月以外実家に帰省することはないため、年老いた父母の面倒は必然的に私がみることになっている。
とはいえ私もこの春に転勤になり、今は住み慣れた大阪の地を離れ東京で一人暮らしになったため、週末だけ大阪は泉佐野市の実家に帰るようにしている。
転勤仕立ての頃は、年老いた両親から離れたことがなかったので、心配もあり、毎週帰らないと気が済まなかったが、単身赴任になり五カ月、最近少ししんどく感じるようになってきた。
私は今の東京赴任まではずっと実家暮らしだった。
いや正確には地元大阪の外語大学を出て今の会社に新卒で入り、現場経験を積んで三年経った時アメリカの支社への赴任を命じられた。
私も血気盛ん?な二十代前半、学んできた語学を生かしたいと入社当初から海外赴任は希望をしていたので、アメリカ赴任の辞令は望むところだった。
両親は今まで私を手放したことがなかったこともあり、相当心配していて、見送りの際は今生の別れかと言うくらい、両親して泣き崩れた。
さらには一年も経たないうちにアメリカまで両親揃って会いにきた。
少し呆れていたが、両親の私に対する愛情の深さを改めて感じた。
でも、アメリカでの私の充実した生活を目の当たりにして、少し安心したようで、その後は月に一回手紙を寄越すくらいのことで済むようになった。
そのアメリカ生活も3年が経ち、凱旋?帰国することになった私は、再び大阪の本社勤めになり、実家に戻ることになった。
両親はことの外喜び、帰国時は親戚中に声をかけて宴会まで開く始末だった。
でも、誰かが待っててくれることはやはり嬉しいことで、両親には深く感謝をした。
だから、今はそのあと年老いた両親の面倒を見ることは当然と思っていた。
しかし、ある日突然それはやってきた。
「お帰り、外は寒かったろう。」
「あ、お母さん、うん、寒かったよ」
「せやろ、ちょっとコンビニ行くんでも、気ぃつけなあかんよ」
「え?あ、うん。」
少し違和感を感じたが、それほど気にはしなかった。
しかし、夕食のあと、母が
「春ちゃん、今日の晩は何食べたい?」
一瞬言葉を失い、次に背筋に悪寒が走った。
そして、昼過ぎに東京から帰ってきた時の母の言葉を思い出した。
「ちょっとコンビニ行くんでも、気ぃつけなあかんよ。」
母は私が東京から帰ってきたという認識はなく、ちょっとコンビニにいっていたと思っていた。
いや、そもそも私がこの家から離れて暮らしていることを認識していないのだ。
母が休んだあと、まだ起きていた父に尋ねた。
「気ぃついたか…つい2カ月前からや、ちょっとずつ話が噛み合わなくなった。」
「病院は?」
「本人は何とも思っとらんのや、病院なんか連れて行かれへんわ」
「そんな…あかんやろ、ちゃんと診てもらわな。」
「診てもらって治るんかい。」
吐き捨てるように父は言った。
「医者で治るんやったらとっくに診せてるわ」
「……」
「医者で…認知症言われたら…どうすりゃいい?」
「……」
「え!どうすりゃいいんか、おまえはわかるんかい!」
父のこんなに動揺する姿を見るのは初めてだった。
父も床についたあと台所のテーブルに座ってお茶を飲んだ。
何時もならこの瞬間、家に帰ってきたという安堵感が湧き、全身からフッと力が抜けてホッとするはずなのに、今日は全身から緊張が解けない。
「認知症…」
呟いて改めてその言葉の重みを感じた。
でも、今は色々な薬も開発されて完治は出来ないが進行を遅らせることはできると聞いたことがある。
それに薬に頼らない脳トレのような療法で元の自分を取り戻したという話もネットの記事で読んだことがある。
父の絶望感は理解できるが、このまま何もせずにはいられない。
翌朝、父を説得してまずは病院に連れて行くことになった。
会社に事情を説明して、そのまま月曜日に有休をとって日曜日にネットで調べて信頼出来そうな病院をいくつか見つけ、第一候補から電話をしてみた。
一番良さそうと思った病院はその日はすでに予約で埋まってしまい、最短でも来週の月曜からしか予約は取れないと言われた。
一瞬諦めようかと思ったが、そこをセカンドオピニオンと考えて来週の月曜の予約を入れた。
次に第二候補の病院に電話をしたところ、午後の診療なら空きがあると言われすぐにお願いした。
母には病院に行くと言っても嫌がられるかもしれないと思い、私の健康診断に行くついでに買い物をしようと誘い出した。
「え?なんで私まで検査をするん?」
「あー、ほら、母さん最近健康診断とかしてないでしょ?さっき病院の先生に聞いたら空きがあるから、お母さんもついでに受けたらって言われたの。」
我ながらむちゃくちゃな理由づけだとは思ったが、案外母は素直に健康診断なら受けると言った。
これもひょっとすると普通ならおかしいと感じることが、認知症のためにそういう感覚が鈍っているのかもしれない。
病院の先生には受付時の問診表に母親には病気のことは知らせずに連れてきたことを書いておいたため、先生も上手に対応してくれた。
一通り目やのどや首の辺りを診るフリをして、次に
「では、上田さん、今から言う言葉を覚えてください。」
先生は3つの関連性はなさそうだが、簡単な単語を並べた。
そのあと、少しだけ母に雑談を持ちかけ、その直後に
「ところで上田さん、さっき私が言った3つの単語を順番に言ってみてください。」
「え?あ、えーと…んー、なんでしたっけ?最近物忘れがひどくて」
と言って母は力なく笑った。
その姿を見て私は全身から血の気が引いた。
しかし、顔には一切表情を出さなかった。
「ただいま。」
「おぉ、お帰り、どうだった!」
玄関に入るなり父が血相を変えて尋ねてきた。
「ちょっとお父さん、あとで」
そう言って遅れて入ってきた母の方を顎で示した。
少しうなだれて父は居間に戻った。
母が居間でテレビに夢中になったところで、父を台所に呼び出しダイニングに座ってお茶を淹れた。
「やっぱり…認知症の可能性は高いって。」
「……」
「まだ、初期みたいだから、薬や療法で進行を遅めることはできるみたいだけど、やっぱり止めることや治すことはできないって。」
父が震えているのがわかった。
「何も…」
「え?なに?」
「何も悪いことはしてへんのに。」
「……」
「なのに、なんで母さんなんや…そんな理不尽あってええのか!」
急に大声でテーブルを叩く
「ちょっとお父さん、やめて。お母さんが変に思うでしょ」
しかし母は音に気付きチラッとこちらを見ただけですぐにテレビに向き直って大声で笑いだした。
「あれでも、進行は始まったばかりなんか?」
父がやり切れない思いでいっぱいいっぱいになっていることを感じた。
「お父さん、まずはお父さんが冷静になって、お母さんを少しでもお母さんのままでいられるように治療を始めよ。」
本当は私も父同様机を叩いてなぜた!と叫び泣きわめきたかった。
どんなに進行を遅らせても認知症の末路はわかっていたから、余計にやり切れない気持ちが湧いていたが、父に先を越されてしまったため、結局なだめ役にまわってしまった。