小さな傷
翌朝は早朝に新幹線に乗り東京のオフィスに出社した。

出がけに父にくれぐれもやけを起こさないこと、何かあったら自分だけで抱えずすぐに私に連絡を入れることを念押しして家を後にした。

昼休みに妹に連絡を取り、一連の出来事を伝えた。

しかし、妹は自らの子育てと遠距離を理由にあまり力になれないとすまなそうだけど、きっぱりと伝えてきた。

三日経った。

昨日も一昨日もメールをしたが、
父からの返信は

「大丈夫」
「問題ない」

の一言ずつだった。

土曜日になり、帰宅した。

「ただいま」
「あら、春ちゃんお帰り〜寒かったろぅ」

出迎えてくれたのは母だった。

父はいつものように居間に座り新聞を読んでいた。

「おかえり」

私の方を向くことなく、義務的に言っている感じだった。

「お茶淹れたよ。」

母がダイニングの私の定位置にお茶をおいてくれた。

「!」

でも、使われていた湯呑みはお客様用のものだった。

普通に見えてやっぱり普通じゃない。

父はこういう状況を毎日見ているのだろう。

普通なように振る舞われると、一瞬でも「大丈夫かも」いやもっと言えば「治った」いや「始めからこちらの勘違いだった。」くらいのことを考える。

でも、その期待や安心感を次の行動で瞬時に崩される。

こんな気持ちの浮き沈みが起きている間ずっと続く。

よほどの強靭な意思を持った人間でも、精神的に参るだろう。

「お父さん、大丈夫?よかったら少し散歩でも行ってきたら?私…観ておくから。」
「ん?あーじゃ、少し出かけてくる。」

そういうと父は椅子にかけているジャンパーを羽織り玄関へ向かった。

父にも少しは息抜きの時間をあげないと共倒れになる。

仕事の合間を縫って認知症で苦しむ家族のことを綴ったブログをいくつか見た。

シチュエーションは様々だが、共通しているのは、無理が誰かに集中した時にその人から家族の形が崩壊する。

誰かが被ってはいけないこと。

手があるなら必ず分散させること。

患者を抱えた家族の鉄則だと書かれていた。

月曜日、会社に介護休暇の申請をした。

次の週末に帰り、月曜日と火曜日を休んで母の要介護申請をした。

これによって認定が降りれば介護保険でヘルパーが呼べる。

家族が共倒れにならないように、納めている税金の分は使わせてもらい、他人の力も借りる。

ひと月の間で要介護2が付き、ヘルパーやデイサービスなど受けられるようになった。

しかし、ここで問題なのは母がまだ自分が認知症だとは自覚していないことだ。

父に相談して本人に伝えようと私が言うと

「それだけはやめてくれ」

と父は懇願した。

本当なら患者にも事実を伝え自らも進行を遅らせる努力をした方が治療効果は高くなると専門家の意見は述べていた。

それも話したが父はガンとして受け付けなかった。

母には悲しい思いはさせたくないというのだ。

冷静に考えれば、この選択は間違っている。

所謂余命がわかっているようなガンであるとかなら患者に知らせないという選択をすることで最期の時を迎えるまで気持ちの負担をさせないというのも有効だろう。

しかし、認知症は違う。

言い方は悪いが、いつ亡くなるかなんて決まってない。

むしろ自覚がないままで事故などに遭遇して不慮の亡くなり方をすることだってある。
もちろん知らせたからと言って病が進行すればわからなくなってしまうのだが、それでも知ることで前向きに対処出来れば少しは進行を止めることができるという。

そのことも父には伝えたが結論は変わらなかった。

毎週末には必ず帰っていたが、3ヶ月を過ぎた頃から母の様子が急に変わった。

座ってはいるが、何か不安げで、いつも何かに触れていないと落ち着かないようでテーブルクロスやタオルなどを常にいじるようになった。

医師からは薬を変えることを勧められて飲ませてみたが、その薬は大人しくなる代わりに気力がなくなりいつも虚ろな目をするようになった。

以前から暴れるようなことはなかったので、医師に相談して薬を弱めてもらうよう言ったが、一度変えてすぐに薬を変えると余計に症状が悪化することがあると言われ、仕方なく今の薬を続けた。

しかし、明らかに気力がない様子で、父はその母の姿を見て自室にこもって泣いていることもあった。

母が弱るに連れ父も弱った。

食欲がないと作った食事にろくに手をつけず、すぐに自室に籠ってしまう。

やはり、父には無理なようだ。

考えてみれば自分が愛した妻がみるみる変わっていってやがては自分のこともわからなくなるかもしれないという恐怖と常に対峙している。

それが"日常"になっているのだ。

正気を保てというほうが酷かもしれない。

しばらくすると父は母を寝かしつけた後、私の側に座り、母と父が若かった頃の話をするようになった。

「父さんな、恥ずかしい話やけど、母さんと付き合い始めた頃、まだ、仕事をはじめたばっかで、金がなかったんやけど、母さんがフルーツパフェ食べたい言うもんやから、心斎橋のフルーツパーラーに行って、母さんだけにパフェ注文して、ワシは水だけでがまんしたんや」
「うんうん」

「そしたら、母さんが『なんやあんた、なんも食べへんの』ってあっけらかんと聞きよるさかい、『あーちょーどくる前に飯食うたとこやったから今はなんもいらんわ』ゆうてごまかしたんや」
「へぇ、男らしいやん」

「でも、店の支払いしたら帰りの電車賃まで使うてしもて、心斎橋から家のあった森ノ宮まで歩いて帰る羽目になったんや」
「あははは、でも、お父さんカッコええわ」

「ま、それくらい可愛いくて、何でもしてやりたいくらい、惚れとったんやな。」

そう言ったあと父は薄っすらと涙を浮かべた。

母が認知症を患って半年が過ぎた。

この頃は今までの落ち着きない態度から殆ど言葉を発せなくなり、声をかけても頷くか、力なく微笑むだけで、母がどうしたいかがわからなくなってきた。

父はあれから少し気力を取り戻して、少しずつ現実を受け入れるようになり

「ワシが落ち込んだら母さんはもっと悪くなるかもな。」

と言って自ら母の世話をするようになった。

そんな矢先、父がいつものように母の食事の世話をしている時に久しぶりに母が喋った。

「いつも、ありがとう。」

母のその言葉に父は動きが止まり身体が震え出し涙を流し始めた。

釣られて私も安堵の涙を流した。

「どなたか知りませんが、ホンマに親切にしていただいて、ありがとう」

再び父の動きが止まり、今流していた感涙から、大きく見開いた目には恐怖が宿っていた。

父は持っていたスプーンを置くと力なく立ち上がり奥の部屋へと消えていった。

恐れていた時が来てしまった。

一度は現実を受け入れ気力を取り戻した父だったが、この母の一言で再び地獄に突き落とされた気持ちになっているだろうことは容易に想像できた。

母を寝かしつけた後父の部屋を訪ねた。

父はベッドに横たわりこちらに背を向けていた。

「お父さん、入るよ。」

返事はなかったが、部屋に入った。

ベッドの傍に座った私は

「勝手に喋るけど、黙っててええよ。」

と前置きをして、受け入れがたい現実について医者に以前聞かされていたことが目の前で起こってしまったことは、私も辛い、でも、母の面倒をこれからも見なきゃいけないこと、面倒さえ見れば母はまだ生きることができること。

そして、一番大事なのは母に生きてもらうことじゃないか、と問うた。

返事はなかったが、それだけ言って部屋を出た。

翌朝父はいつも通り起きて来て母のための粥を炊き、食事の準備をしていた。

「ありがとう。お父さん」

そう言って仕事に向かうため早朝に家を出た。

父は立ち直ってくれたのだろうか…

でも、現実は変わらない、いやむしろ悪くなることは目に見えている。

私も頑張るが、父にも頑張ってもらわないと…

こうして母の認知症が発症してから間もなく一年が経とうとしていた。

父は私の期待以上に母の面倒をみてくれて、介護生活にもかなり慣れてくれたみたいだ。

「しばらくお母さんのことみてるから、いいよ。」
「そうか、じゃあちょっとだけ。」

そう言うと父は上着を羽織って外に出た。

父の唯一の楽しみはパチンコだ。

母の介護が始まってからは、平日はもちろん無理だし週末私がいる時でもどこか後ろめたさもあったのだろう、ほとんど行かなくなっていたが、私がある時、父にも息抜きが必要だと言って週末の夕方までは行っていいよと勧めた。

それ以来、父も少しリラックスできたようで、
「その分働く」
とより母の介護を頑張ってくれるようになった。

もっとも、パチンコはギャンブルだから負けた時は気力を失って帰ってくることもあるが…
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