小さな傷
「え?」
「知ってた?」

「どういうこと?」
「だから、単身赴任で郷里の山口に奥さんも子供もいるのよ。」

耳を疑った。

もうすっかり恋人になったつもりでいた彼に

『奥さんと子供がいた。』

確かに、転勤してまだ2か月で、それほど社内の人のことを知っているわけではないが、すでに体の関係までできてしまった彼に妻子がいることを知らなかったなんて、考えられない話だ。

彼からそんな話は一切なかったし、同僚からも今日初めてそのことを聞いたくらいで、周りでそういう話題は一切なかった。

普通なら一緒の職場で働く人たちの人となりくらいは他から情報が入るものだが、それもなかったことにいまさらながら気づかされた。

「ありえない」

すぐにその晩に彼を呼び出し問い正した。

「うん、いるよ。妻も子供も。」

あっさりと認めた。

「むしろ、知っていて、それでも良いと思って付き合ってくれていたと思ってた。」

ものすごく腹が立ったが、冷静に考えれば彼の言うことも一理ある。

最初の日に、誘われて乗ってしまった時、彼は私が彼のことは”妻子持ち”であることを承知の上でホテルまでついていったと思われたのかもしれない。

そこで、そんな妻子の話などするはずもないし、勝手だけど、そういう「思い込み」はありえなくはない。

話をしているうちに彼だけを責められない気持ちになってきた。

「でも、もう実は単身赴任を初めて2年以上になるけど、その間、帰ったのは盆と正月だけで、親戚に顔合わせするのと、子供の様子をみることくらいで、妻とは一切そういう関係がないんだ。」
「え?」

”そういう関係”

その手のことに鈍いと言われている私でも、その意味は分かった。

「あ、でも勘違いしないで。ただそういうことがしたかったから君を誘ったわけじゃないよ。本当に気持ちが君に行ってしまったから。いや、ちゃんと言おう。君が好きになったから。だから誘ったんだよ。」

一途に私を見つめるその目に嘘はないと感じた。

勝手な解釈も入っているが、要はまとめるとこうだ。

奥さんとはすでに別居のようなもので、肉体関係もなく、つながりは子供の事だけで、あとは田舎ということもあって親戚縁者も多いため離婚することは踏ん切りが付けづらいが、私という愛する者を見つけ、いつかは一緒になろうと考えてくれている。

今思えば、本当に『恋は盲目』特に今まで一人の彼氏しかいなかった私に、恋愛を冷静に見ることができる免疫はなかった。

「わかりました。」

そういうのが精いっぱいで、その日もそのまま彼とホテルで一夜を過ごしてしまった。


久しぶりの休日
朝から妹は母の用事で、一緒に外出していた。

洗濯と掃除を終えて、たまには買い物でもしようかと街に出てみた。

人ごみは嫌いだったが、その日は空に雲一つ無く晴れていて、何か誘われるような感じでつい外出を試みた。

しばらくウインドウショッピングをしていたが、ちょっと疲れたので、テラス席のあるカフェに入り何気なく外を眺めながらアイスコーヒーを飲んでいた。

少し離れた道路の向こう側の歩道に2歳くらいの小さな子供がまだおぼつかない足取りで歩いていた。

その子がちょっと躓きそうになり、ひやりとした瞬間、うしろから父親だろうか、背の高い男性が子供の両脇を抱え、自分の肩に乗せた。

子供は大喜びでキャッキャと声を上げているようだ。

その後ろを初夏を思わせる白い上品な感じのワンピースを着た母親らしき人が、子供の顔を見ながら微笑み、さらにその男性の腕に手をまわして歩き出していた。

「いいなぁ。」

思ったより大きな声で言ってしまったため、周りからクスクスと笑われた。

片肘をついてため息を漏らす。

『私も近い将来あんなふうに家庭を持てるのかな…』

“不倫”

所詮今の状態では世間でいうところの「不倫」でしかない。

自分では恋人と思っていても、実は「愛人」というレッテルが貼られ、ただの馬鹿な女とみられてしまう。

今まで自分とは全く縁遠く、芸能界の話くらいにしか思っていなかったことを現実に自分が体験している。

ものすごく不条理を感じるが、それでいて今の立場が全く嫌というわけではない。

『悲劇のヒロイン』

おそらくは少しそんな感覚もあって、不幸でいる私に陶酔していたのかもしれない。

でも、このことは口が裂けても母や妹には言えない。

それだけは現実の問題として絶対に死守しなければならない。

曖昧な中に『確信』を持てることだけはきちんと守ろうと考えていた。

彼との関係ができて3か月が経った。

相変わらず2日に一度はホテルで過ごし、彼との逢瀬を重ね、お互いの愛を確かめ合っていた。

そして、少しずつだが『二人の将来』について語ってくれるようになり、子供は引き取らないことや、養育費は払わなければならないこと、でも、私との子供を持ちたいことなど具体的に話してくれるようになってきた。

しかし、ここへきて疑問に思うことが出てきた。

彼は「単身赴任」であるにも関わらず、一度も私を部屋に連れて行ってくれたことがない。

ホテルでの逢瀬のあと、どんなに朝方になっても必ず家に帰る。

だから私もタクシーで家に帰ったり、時として、着替えを持ってきておいてホテルで着替え、そのあと始業まで早朝の喫茶店で過ごすことも多かった。

「なぜ?」

そう思い始めたら、追及したくなってきた。

会社には社員名簿があり、住所も書かれていた。

それをスマホに移すと、その住所を地図情報で検索、もともと駅は知っていたから、そこからの道のりを見つけた。

少し彼を驚かしてみようという、いたずら心もあり、休みの日に黙って彼の家に行くことにした。

万一彼が不在でもそれはそれで仕方ないと思っていた。

次の日曜日

最寄りの駅に降り立つと地図アプリを起動して、彼の家までの道のりをセットした。

「徒歩8分」

表示を頼りに歩き始める。

駅前の商店街を抜けると、住宅街に変わり、とても静かな雰囲気の街並みだ。

いくつかの角を曲がるとそこからは一直線の道路に沿って、50メートルほど行った右側にそのマンションはあるはずだ。

徐々に近づいてくると彼が待っているわけでもないのに胸がドキドキと高鳴ってきた。

「どうしよう。」

いまさらだが、ふいに訪れて迷惑にならないか、出かけていたほうがホッとするかも、
さらには、実は別の女と暮らしていて見せられなかったとか、など勝手に想像を巡らせて、独り心の中で「きゃあきゃあ」と騒いでいた。

ついに彼のマンションらしき建物に近づく。

マンション名を確かめる。

間違いない。

外の扉はオートロックではない。

内扉の前に部屋番号を押すタイプのインターホンがあった。

でも、単身者用だからなのか、モニターカメラはついていないようだ。

しばらくどうしようか迷ったが、ここは意を決して彼の部屋番号を押した。

反応がない。

3秒ほどして、あきらめて外に出ようとした時、インターホンが「ガチャ」という音を立てた。

こちらが声を発そうと息を吸った時、スピーカーから

「はい、どちらさまですか?」

女の声だった。

全身から血の気が引いて、どう対処したらいいかまったくわからなかった。

「もしもし?」

なおもその女の声は問いかけてくる。

「あ、すみません!部屋を間違えたようです!」

咄嗟にそういうと、「ガチャリ」といって無言のままインターホンが切れた。

本当に部屋番号を間違えたと思い、切れた瞬間に部屋の表示番号が映し出されたのをもう一度確かめて、写し撮ってきた彼の住所をもう一度見た。

同じ部屋番号だった。

茫然自失。

でも、部屋番号を見間違えたのかもしれない。

苦しいが自分に言い訳をぶつける。

でも、もう一度インターホンを押す勇気はなかった。

そのマンションから少し離れたところに小さな公園があった。

ちょうどこのマンション側を向いているベンチがあったのでそこに座ってしばらくその入り口を見張っていた。

「彼が出てくるのではないか。」

きっと彼は出てきて私の存在に驚き、でも嬉しそうに笑顔で私を受け入れ、そのあと買い物に行って彼の家で食事を作り一緒にワインを飲みながら愛を語らう。

また、妄想が進んでいた。

初夏とはいえ、陽射しを遮るものはなく、日焼けを気にしながらもその場からなかなか離れることができなかった。

すでに2時間近くが経った。

「なにやってんだろう、わたし…」

そう思って少し現実に戻りそうになった時に、マンションの表玄関が開いた。

彼だ!

休みの日らしく、Gパンに白っぽいTシャツをきて薄手で明るい黄色っぽいカットシャツを羽織っていた。

彼が出てきて、声をかけようと立ち上がろうとした時、彼がマンション側を振り返って笑顔を向けていた。

その先には、セミロングでスラッとした細身の女性が、薄い白と緑の花模様が入ったワンピースを着て、白に近いベージュの踵のあるサンダルを履いていた。

『美人』

一言でいえばそういう人だった。


帰りはどういう道のりを辿ったのか全く記憶にない。

玄関に入ると

「おかえり」

と母が出迎えてくれたが、応えることなく母の横をすり抜け
二階へと続く階段を上った。

自室に入るとベッドで一緒に寝ているクマのぬいぐるみを抱え、その場にへたり込んだ。

「はあぁー。」

大きなため息をついた直後に、ドアをノックされ、母が入ってきた。

母は私を見つめながら、何も言わず、部屋の入り口に立っている。

「どうしたの?」

私がきょとんとして尋ねた。

「ん、なんか由緒ちゃんが、ちょっと寂しそうに見えたから。」
「え?」

「大丈夫かなって思って…。」

言われた瞬間、私は堰を切ったように泣き出し、小さな子供のように母の胸に飛び込んでいた。





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