小さな傷
また、うそばっかり。

きっと「今度」も勝手に支払うつもりだ。

でも、こんなこともあろうかと、作戦を考えていた。

店の外に出ると、タクシーを呼び止めようとした山埜さんの腕をつかんで手を下げさせた。

「え?」
「今日はまだ早いですから、もう少しだけ付き合ってくれませんか?」

少し酔いが回っていたせいか、かなり積極的なセリフを恥ずかし気もなく出せた。

「あぁ、べつにかまわんけど・・・」

私が酔っていると思ったのか、少し怪訝そうに見えた。

私は、タクシーを呼び止めさせないようにつかんだ手を下げた後、腕を組むようにして山埜さんを引っ張り、歩き出した。

「どこへ?」
「いいとこです。」

私は微笑みながら意味深に答えた。

実は、さっきの料亭で山埜さんが席をはずしているときに、仲居さんに近所に感じの良いバーなどないかを尋ねておいた。

「えっと、確かこの辺・・・あ、あった!」

そういうと山埜さんを引っ張ったまま走り出した。

「え?え?」

戸惑う山埜さんを無視して、店の入り口まで到着した。

「ここ、入ってもいいですか?」
「え?あぁ、いいけど、知ってる店?」

「はい、知ったのはさっきですけど。」
「えー、ははは、よし、入ろう。」

そういうと今度は山埜さんが私の手を握って一緒に店の中へ入っていった。

彼の大きな手から、じんわりと温もりを感じた。

店に入ると、ピアノのジャズっぽい音楽が流れていて、とても落ち着いた感じだった。

カウンターに通された私たちは、バーテンダーから注文を促されると、私はおすすめのカクテルを、彼はバーボンをロックで頼んだ。

軽くグラスを合わせると、一口カクテルを含む。

口当たりは優しく、でも喉を通ると少し熱い感じが胃のあたりまで続いた。

「お誘いいただいて、光栄だよ。」

笑いながら彼が言う。

「なんか、今日はもう少し、居たい感じだったんです。すみません。」
「全然、俺ももう少し飲みたいかなって思ってたところだったから。」

また、うそだ。
でも、優しい嘘だ。

それから、酔いもあったせいか、秘書課に配属されてからの1年が、どれだけ不安で、たいへんだったかを上司ということを忘れて訴えていた。

「苦労かけたね。」
「いえ、そんなつもりじゃ・・・」

「でもね。この1年で君は俺の予想を超えて成長してくれたよ。」
「え?」

「いや、お世辞でもなんでもなくて、本当にそう思ってる。」
「そんな、まだまだです。」

「君のそういうところ、向上心を感じるし、秘書として一番大事な相手のことを思い遣る気持ちを君は自然に持っている。俺はそう感じているよ。」
「室長・・・。」

「あー『室長』はやめてくれ。山埜でいいよ。」
「あ、はい、山埜・・・さん。」

「ははは、ぎこちないな。なんなら「和臣(かずおみ)」でもいいよ。」
「え?!」

下の名前を言われてなぜか急に恥ずかしくなり耳が熱くなった。

「ん?どうした、下向いて。飲みすぎたか?」
「いえ、大丈夫です。」

今さっきまで『上司』と仕事の話をしていたつもりだったのに、『和臣』の一言で、今おしゃれなバーで、男性と二人きりで飲んでいることを意識してしまった。
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