水鏡~すいきょう~
───あれはいつだったか...
突然、普段は全く連絡して来ない冬夜から
『話がある。今夜時間あるか‍?』
と、SMSが入って来た。
恋愛事では無いと頭で言い聞かせても、初めて2人で会う事にドキドキしていた。
冬夜が時々フラリと立ち寄る店に入ると、カウンターで早速、逆ナンされている冬夜が目に飛び込んで来た。
「だから、待ち合わせなんだ」
「え~、嘘~。じゃあ、待ってるから。その後なら良い‍?」
「悪い、今はそういう気分じゃないから」
髪の毛をふわふわ揺らしながら、柔らかい素材のヒラヒラした服を着た女性が冬夜の腕を引っ張って甘えている。
それを見た瞬間、遙は吐き気を催してトイレに駆け込んだ。

ダメだ......

まだ、あの女の面影を見ると吐き気がしてしまう。
「遙ちゃん、遙ちゃん」
幼い頃、あの女が自分の髪の毛を梳いては
「女の子はね、可愛くしていなくちゃね」
そう言っていた。
いつも可愛らしい服を着させられ、リボンの着いた長い髪の毛だった。
洗面所で口を濯ぎ、鏡に映る自分の顔を見た。
年齢を重ねる程、あの女に似てくる自分の容姿に吐き気がする。

「遙ちゃん、ごめんなさい。ママ、あなたのママにはなれなかった。
でも、遙ちゃんは女の子だから分かるよね‍?
ママ、母親である事より女で居たいの」
知らない男性の腕に縋り付き、鞄1つで家を出たあの女...。
あの日、遙は女性である事を捨てた。
長かった髪の毛を自分でハサミで短く切り、あの女の買った服を全て捨てた。
スカートなんて、7歳のあの日以来はいていない。
顔を洗いタオルで拭くと、自分が映る鏡に水を掛ける。
「こんな顔...」
吐き捨てるように呟き、トイレのドアを開けた。
すると、ふわりと鼻に冬夜のコロンと同じ香りがした。
視線を向けると、女子トイレのドアの横に冬夜が立っている。
「大丈夫か‍?」
ポツリと言われ、遙は
「お前、いつから‍?」
驚いて叫ぶ。
「お前が駆け込んでから...」
そう言いながら店の外へと歩きだした。
「‍?」
呼び出したのに、何故店を出る‍?
遥が疑問の視線を投げると、冬夜は振り向きもせずに歩きながら
「余計な邪魔が入ったからな。
何も無いけど...、まぁ、良いか」
ブツブツ言いながら遙の少し前を歩いている。
冬夜はいつも近からず遠からずの距離で歩く。
並んで歩くのは、大概仕事の話の時だけ。
多分、遙の気持ちを薄々分かっていて、期待を持たせない為の距離なのだろう。
(近くて遠い...まさに今の関係だな)
遙が小さく自嘲気味に笑うと、二階建ての古いアパートに着いた。
『103』と書かれた札のドアに冬夜が鍵を差し込む。
「コーヒーしか無ぇけど...」
ポツリと言われ、ドアの向こうに消えて行く。
(え‍?此処って、冬夜のアパート‍?)
遙は早鐘のように鳴り響く心臓を押さえ
(落ち着け、深い意味は無い。そう、意味は無い。意味は無い)
呪文のように心の中で呟いていると、再びドアが開き
「何してんの‍?さっさと上がれよ」
と、冬夜が中へと促した。
季節は冬。
でも、緊張して寒さも吹っ飛んだ。
「お邪魔します」
小さな声で呟いて中に入る。
中に入ると、小さな玄関からすぐリビングになっていて、奥に和室が二間ある部屋だった。
リビングの隣にドアが2つあるから、恐らくトイレと浴室という所だろうか。
部屋の中はガランとしていて、物が少ない。
リビングにテーブルは無く、奥の和室にテーブルとテレビが置いてある。
「あっちの部屋に行ってて」
やかんでお湯を沸かしながら、その火でタバコに火を着けて冬夜が呟いた。
遙が緊張しながら奥に行くと、襖で仕切られた部屋が丸見えだった。
いかにも万年床という感じの布団と、カーテンレールに掛かった洗濯物。
下着が無造作に干されているのが目に入り、遙は奥の部屋に背中を向けて座った。
(どうしよう。見ちゃいけないものを...)
アワアワしている遙に
「どうした‍?」
と、当の本人は、のほほんと遙にコーヒーを差し出した。
「悪ぃ。そういえば、ミルクと砂糖無いわ」
ガシガシ頭をかきながら冬夜が遙の前に座った。
身体が緊張でガチガチなのが分かる。
冬夜の声より、自分の心臓の音がうるさい。
聞こえる筈は無いのに、自分の心臓の音が冬夜に聞こえるんじゃないかって心配になる。
そんな時
「お前さ」
ふいに冬夜が話し始めた。
遙が顔を上げると、冬夜の漆黒の瞳と目が合う。
ただでさえうるさい心臓が、もっと早く鳴り響く。
顔が熱くなって、暑いんだか寒いんだか分からなくなる。
「何‍?」
やっと絞り出した声で、口の中がカラカラな事に気付いた。
慌てて、冬夜の入れてくれたコーヒーを飲もうとカップに手を伸ばす。
湯気が立つコーヒーを冷まして、やっと口にした瞬間
「幸太の事、どう思ってるんだ‍?」
と、突然切り出された。
「えっ‍?」
驚いて冬夜を見ると
「あいつ、お前の事が好きだろう‍?
弟とか言って無いで、付き合ってあげたら‍?」
そう言われてしまった。
それも…一番言われたくない相手に。
「冬夜には関係ない事でしょう‍?
どうしてそんな事を言うの‍?」
思わず言葉を荒らげて叫ぶと
「あいつ、仕事出来るのにいつも自信無さそうな顔をしててさ。
お前、もう少しあいつを認めてやれよ。可哀想だろう」
冬夜が遙の気持ちを全く知らないかのように、冷静に言ってきた。
グラリと視界が揺れる。
ぽたぽたと涙が落ちる。
初めて飲んだ冬夜の入れてくれたコーヒーが、普段の何百倍も苦く感じた。
涙を流す遙の顔を見て、冬夜はいつもの表情で
「あ...悪い」
とだけ呟きハンカチを差し出して来た。
遙は冬夜の手を叩き
「幸太が可哀想なら、私は何‍‍?」
叫んだ遙に、冬夜は覚めた眼差しのまま
「俺、お前とは友達以上になるつもり無いから」
そう答えた。
遙は目眩が起こりそうになる自分を奮い立たせ、必死に立ち上がる。
(分かってた、分かってたけど...こんなのって酷い!)
後から後から溢れ出す涙を、遙は必死に手で拭いながら涙を止めようとする。
でも、涙腺が壊れてしまったんじゃないかと思う程に涙が止まらない。
フラフラしながら必死に玄関に辿り着き、靴をはいて立ち上がった瞬間、身体のバランスを崩して倒れそうになった。
その時、冬夜の腕が伸びて来て遙の身体を抱き留めた。
「大丈夫か‍?」
かけられた声は優しくて、さっき無慈悲に自分を振った人間のものとは思えない程に温かい。
初めて埋めた胸は逞しくて、冬夜の規則正しい心臓の音が聞こえる。
自分だけドキドキしていて、冬夜の規則正しい心音に絶望感が増すだけだった。
遙は冬夜の背中に腕を回して
「もう2度とこんな事言わない。
明日からは友達に戻るから…、だからもう少しだけこのままで居させて」
必死に言葉を吐き出した遙に、冬夜は大きな溜息を吐くと
「分かった」
とだけ答えた。
どの位の時間だったのだろうか?
気持ちが少し落ち着いて、ゆっくりと冬夜から離れた頃には涙も枯れ果てていた。
そんな遙の顔を見て、冬夜は「プッ」と吹き出すと
「折角の美人が台無しだなぁ~」
そう言いながら、残った涙を大きな手で拭う。
これが冬夜に触れられる最後のチャンスだと分かっていたから、遙はその手に自分の手を当ててそっとキスをした。

 出会いは中学生の頃だった。
冬夜に出会ってから誰も目に入らなかった。
好きで好きで大好きで...
でも、決して手の届かない人。
ゆっくり遙が冬夜を見上げ
「ごめんね、ありがとう」
また込み上がって来る涙を我慢しながら、必死に笑顔を作る。
その時、何故か誰よりも冬夜が傷付いた顔で自分を見つめていた。
そして悲しそうに揺れた瞳が近付いて来て、ゆっくりと触れたか触れないか分からないようなキスをされた。
「えっ‍?」
驚いて見上げた遙に、悲しそう冬夜は微笑むと
「ごめん」
とだけ呟いた。

 
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