マイ・フェア・ダーリン
一番遅い出勤は13:30。
そこまであと10分を切って、タイムカード周辺は慌ただしくなっている。
その中でひときわ大きな声がした。
「廣瀬くん!」
タイムカードに向かって、どことなくふわふわ歩く“廣瀬くん”を、事務所に飛び込んできた男性が呼び止めた。
「あ、下柳さん。おはようございます」
下柳? と名前に反応して注目すると、背が高く目が細い男性が“廣瀬くん”の挨拶を完全に無視して自分の要求だけ突きつける。
「廣瀬くん、急ぎで二台。手持ちに空きない?」
配車は日々綱渡りらしく、こんな風に頭を抱えている様子もたまに見かける。
他人事なので、大変だなあ、なんて横目で見ながら鳴り響く電話を取った。
「お電話ありがとうございます。ササジマ物流第三営業所、西永でございます」
発注依頼だけど、これは明日の分だ。
今すぐ車が必要なものでなくてよかったな、と思いつつチラッとふたりに視線を向ける。
「手持ちはいっぱいですが、懇意にしてる運送会社さんの車に心当たりあるので、聞いてみますね」
「時間ないから早く!」
下柳(敬称削除)に引っ張られるように、廣瀬さんは爪先の方向を変える。
おーーい! 廣瀬さーーーん!
電話の声に耳を傾け、データを打ち込みつつも、心の中で廣瀬さんに呼び掛ける。
タイムカード、押してませんよーーーーっ!
私と廣瀬さんは心が繋がっているわけではないので、下柳に引っ張られたまま廣瀬さんは事務所を出ていった。
「━━━━━確かに承りました。ありがとうございます。失礼致します」
電話を切ったときには廣瀬さんの風すら残っていない。
時計をみると、あと三分ほどで時間切れだ。
廣瀬さんの姿は、まだない。
やはりどうしても読めなかった文字を電話で直接確認して、ふたたび時計を見たらあと三十秒。
電話中もずっとドアを見ていたのに、廣瀬さんは戻ってこなかった。
ええーーーっ! 廣瀬さーーーん!
アルバイトでなかったとしても、当然査定には影響する。
お給料だってちょっと削られる。
事情がある場合、タイムカードの時刻を訂正することも可能だけど、訂正させる気ないな、というくらい煩雑な手続きが必要だった。
だから私なんて遅刻寸前のときは、制服への着替えもそこそこに、髪の毛も振り乱してタイムカードを押しているっていうのに。