マイ・フェア・ダーリン
廣瀬くんは携帯をテーブルに置いて、私に向き直る。

「俺、会社辞めようと思ってるんだ」

私はぱちぱちと大きくまばたきをした。

おい、廣瀬。
それって、もののついでで話すようなことなのか?

力が抜けてソファーの背に乗せていた手がストンと落ちた。

「地元の高校から陸上の指導しないかって打診されてて。湘教大の方からも俺が地元で後継を育成したら、いいパイプができるって頼まれてる」

「……先生になんてなれるの?」

「元々指導者志望だったから、教員免許は持ってる。優芽」

真正面から真っ直ぐ目を見て、真剣なまなざしを向けた。

「不安定な仕事だし、苦労も多いし、だからって給料がいいわけでもないけど、俺はやりたいんだ。だから……ごめんね」

「え?」

謝罪の言葉を残して、廣瀬くんはリビングを出ていった。
扉の閉まる音がやけに大きく響く。

確かに不安しかない。
ここより、それから私の地元よりも田舎だし、交通の便は悪いし、何をする仕事なのか、私には何ができるのかわからないし、将来も見えないし、お金の心配だってある。
それでも、悩むことさえさせてもらえないの?
一緒に、って望んでももらえないの?
私だって、陸上大好きな廣瀬くんが大好きだし、その夢を応援したい気持ちはあるのに……。

元々閑静な住宅街ではあるけれど、深海のように、宇宙のように、重く暗いしずけさだった。
自分の心の闇に包まれたよう。

もらえなかった言葉を嘆くけど、私だって伝えていない。
いつもまなざしで、指先で、その全部で、いとおしいと伝えてくれる廣瀬くんについ甘えて、まともに愛情を伝えたことなんてなかった。
直接言えない代わりに十年前の映像に想いをぶつけた。
胃カメラのとき、あんなに人生を後悔したのに、私はまた同じ過ちを繰り返している。
桝井さんの『あと半年もたない』という言葉が現実味を増して、しずけさを深めていった。
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