マイ・フェア・ダーリン
下柳が無難な自己紹介で終わってくれたので、廣瀬さんもそれに続く。

「配車担当の牧廣瀬です。三十二歳です。好きな食べ物は麻婆豆腐です」

………………………………………は????

みなさま(誰?)にお見せできないのが残念なくらい、私の顔は“無”になっていた。
貧弱な語彙力を駆使して私の中のイメージをお伝えすると、驚きのあまり目も鼻も口も、顔のパーツすべてがツルッと剥けた感じだ。
こんなに短い自己紹介の中に、疑問がたくさん溢れてて、私は廣瀬さん……牧さん? の顔を、筆入れする前のこけしのような表情のまま凝視していた。
が、その場の視線が全部私に集まっていたので、最も重要なはずの第一印象を、おざなりな自己紹介で植え付ける。

「事務の西永優芽、二十八歳です。好きな食べ物はみかんです」

別にみかんが特別好きなわけではなかったけれど、廣瀬さん……牧さん? の顔を見ていたらついそう言っていた。
廣瀬さん→牧さん? →箱根駅伝→みかん、という連想ゲームが瞬時になされたらしい(無自覚)。
自己紹介は園花ちゃんを経由してつつがなく進んでいる。

幼少の頃より「他人の話は顔を見て聞きなさい」と言われて育った私は、ひととおりの自己紹介と、どうやら幹事を仰せつかっているらしい廣瀬さん……牧さん? が無難な挨拶のあと乾杯を告げるところまで、一応おとなしく聞いていた。
しかしその乾杯のあとグラスに唇をつけることすらなく、テーブルの端に立ててあるメニューを床にどけ、廣瀬さん……牧さん? の直角になる位置にドスッと移動した。

「廣瀬さんって、“牧さん”なんですか!?」

照れたように、廣瀬さん……牧さん? は笑った。

「やっぱり、わかってなかったんですね。そうかな? とは思ってました」

「“廣瀬まき”さん?」

「それ、よく言われますけど、“牧廣瀬”です」

「“廣瀬さん”はミドルネームですか?」

「いえ、普通に名前です。ミドルネームって“ウィリアム”とか“ジェームズ”とかじゃないですか?」

「“大岡越前守忠相”みたいな?」

「いや、官職名でもないです。普通に名前ですって」

「だって変!」

「ストレートに言われたのは初めてですけど、よく驚かれます」

「牧さん?」

「はい」

「廣瀬さん?」

「はい」

「どっち?」

今度こそ本格的に困って、大根サラダにゴマドレッシングを丹念に混ぜ続けている。

「……仕事では“牧”が無難かな」
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