マイ・フェア・ダーリン
「廣瀬さん、箱根駅伝優勝してたんですね」

聞こえてくる堀田さんの話は知らないものばかりで、親しくなったと思っていた廣瀬さんがよくわからなくなった。
箱根駅伝なんて出場するだけで地元のヒーローだ。
優勝なんてしたのなら、有名人になっていてもおかしくないのに、隣の彼は人混みにかんたんに紛れてしまうほどにスター性がない。

「四年のとき、一度だけ9区を走りました。そのときチームも初優勝したんです」

「走ったなら、廣瀬さんの優勝でもあるじゃないですか」

「足は引っ張らなかった、という程度ですね」

安定した廣瀬さんの声は、謙遜するようでも卑屈になっているようでもなく、本当に本人が思っているままを口に乗せたみたいに聞こえる。

「謙遜が過ぎませんか? 箱根駅伝に出たくても出られない人たちに怒られますよ?」

ふふふ、と廣瀬さんは苦笑いして、それでも撤回はしなかった。

「俺、高校時代はまったくの無名だったんです。箱根駅伝に出るような選手って、高校でも活躍していた人が多いんですけど、俺は都大路なんてとても走れるレベルじゃなかったんです」

「都大路?」

全国高等学校駅伝競走大会の開催地は京都市で、そのコースのことを通称“都大路”と呼ぶらしい。
西京極陸上競技場を出発し、国際会館前で折り返して戻ってくるまでの42.195kmを七人で繋ぐ(男子の場合)。
47都道府県の代表校がそれぞれ走り、特に最長区間の一区はエース区間で、そこからたくさんの選手が翌年の箱根を目指すそうだ。
中でも速い人は5000mを13分台、そうでなくても14分台の半ばくらいで走るのだという。

「でも俺の高校時代のベストタイムは5000m15分04秒28でした」

車通りが多く声が届きにくいため、私はもう少しだけ廣瀬さんに近づいた。
頬っぺたにも冷たいダウンコートの生地が当たる。

「……遅い、ですよね?」

廣瀬さんは明るく笑って何度もうなずいた。

「どこの大学からも誘われなくて、一般入試で湘和教養大学に入りました。それで陸上部に入部を希望したのですが、断られてしまって」

「断られるんですか!?」

驚いた拍子に足元がグラッと揺れた。
ふたたび私を支えた廣瀬さんは、十数メートル先のコンビニを指差す。

「ちょっと休みましょうか」
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