マイ・フェア・ダーリン
「私、配車担当の人、誰ひとり顔わかりません」

事務課のある事務所内にはタイムカードがあって、みんな出勤退勤時には押しにくる。
だから毎日目の前を通っているはずなのに、顔と名前が一致している人は少ない。
配車担当とは電話でしか接することがないので、声以外はわからない。

「下柳くんは背が高くて目が細い人だよ。牧くんは……中肉中背……」

桝井さんは言葉を切ったけれど、それはもったいぶったわけでも何でもなかった。

「え……牧さんの情報、それで終わりですか?」

桝井さんは宙を見上げ、何かを一生懸命思い描こうとして、失敗したらしい。

「これと言った特徴がないのよねえ。インパクトというインパクトを消し去ったような顔で。あ、二重だよ」

ざっと食堂内を見渡しても、中肉中背の人なんてみかんの皮を投げればぶつかるほどたくさんいる。
きっと半数は二重だろう。

「私も一回チラッと見かけたはずなんですけど、覚えてないですねー。ハゲてなくて、髪の毛は黒かった気がします」

牧さんに関する情報は降ってもすぐ解ける雪のように、まったく後に残らない。
唯一インパクトのある経歴も、

「箱根駅伝か……私苦手なんですよね」

人気スポーツを否定する言葉に、桝井さんも園花ちゃんも驚いたりしなかった。
「まあ、走ってるだけですからね」と。

「そうじゃなくて、どういうスタンスで観たらいいのかわからなくて」

「“スタンス”なんて大袈裟ねえ」
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