マイ・フェア・ダーリン
「こんなペースで走ってて追い付かれない?」

「こんなペースって、ラップタイム聞きましたか? 1km2分45秒って、ここから中島書店まで2分45秒ですよ?」

「うそ! はやっ!」

思わず半身を起こしてしまうほどのスピードだったのに、本人は至って落ち着いた表情で走り続けている。
その髪に新しい春の日差しが舞い降りて、むしろのどかな雰囲気さえ漂って見える。
小鳥でも飛んできて、その肩にとまりそう。

『牧廣瀬。中学校までは野球をやっていました。高校で陸上に転向。しかし記録はまったく伸びず、どこからも声がかからないまま、一般入試で湘和教養大学に入学しました。『箱根駅伝を走りたい』その想いで練習を重ねましたが、去年はインフルエンザで欠場。四年生にして初めての箱根駅伝で、復路のエース区間を走っています』

廣瀬さん本人から聞いて知っていた話なのに、改めて紹介されると涙が滲んだ。
夢が叶ってよかったね、と下心なしで抱き締めたい(嘘。下心は消せない)

「ずっと気になってたんですけど、」

和紗ちゃんは横目で伺うように私を見る。

「お姉さん、なんで牧くんに注目してるんですか? 湘教大出身なら、6区を走った長澤くんとかアンカーの金平くんが有名なのに」

マグカップのコーヒーをゆっっっくり飲んだけれど、和紗ちゃんは質問を引っ込めなかったので、DVDのお礼に私も腹をくくる。

「……今、同じ会社なの」

「ええっ!!」

廣瀬さんには興味ないはずなのに、和紗ちゃんは急に食いついてきた。

「いいなあ! いいなあ! 長澤くん紹介してくれないかなあ!」

廣瀬さんじゃないのか! と苦笑いを返しながら、ホッと安堵のため息をついた。
廣瀬さんはダメ!

5kmを過ぎて、運営管理車で追う監督から何か言われた言葉に、廣瀬さんはふわっと右手を上げた。
何か言われるたびに、「わかりました」と手を上げる。
風が廣瀬さんの髪の毛を後ろに運んでいて、少し口を開けた真剣な表情がよく見えた。
それは走り出したときと何も変わっていない。

「牧くん、卒業後はケガが多くて。なかなか活躍できなかったんですよ。ランナーとしては早い引退でした」

“趣味”と言えないのは、まだランナーとして未練があるのだろう。
ただ走るだけとは違う。
勝たなければならない走りは、廣瀬さんにはもうできないんだ。
会社を変えた理由は、そのあたりの事情もあるのかもしれない。
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