マイ・フェア・ダーリン
往路を走った選手たちは、復路の各地点を回って、沿道から選手に声を掛けているのだけど、廣瀬さんのときもタブレットで情報を確認しつつ、先回りしていたらしい。

『いいペース。これならいける!』

『よしよしよしよし! 優勝見えてきた!』

テンションが上がってきたとき、彼らの目の前を廣瀬さんが通過していった。

『廣瀬えええええ!!!』

『廣瀬行けーーーー!!!!』

ドスの効いた声に気づいて廣瀬さんは彼らに一瞬左手でガッツポーズをした。
それでも、大きな歩幅で、体重も感じさせない軽やかさで、タッタッタッと三歩ほどのことだった。
画面の背中はすでに小さくなっている。
中継では正面からの映像ばかりでわからなかったけれど、沿道からの映像だとそのスピードがよくわかる。
吹き抜けるように、ほんの一瞬。

「風みたい……」

その風が届いたように息が止まる。
でも、実際には前髪一本揺れていなくて、それがたまらなく残念だった。

「あのスピードで走る気分って、どんななんだろうね」

車や自転車ではなく、自分の足で。
それは私には生涯体験できない世界だ。

「大抵は苦しいみたいですけど、実際のところはわかりませんよね」

私もあの風に吹かれてみたかった。
見えないし感じない、十年前の風を追いかけて、私はさらに深く落ちていった。

10区でも後方からの追い上げはあったものの、抜かれることなく湘教大がトップでゴールした。

『湘和教養大学、悲願の初優勝ーーーっ!!』

その歓喜の輪の中にはもちろん廣瀬さんの姿もあり、監督の足を持ち上げて胴上げしていた。

『では9区の牧くん。走ってみてどうでした?』

ようやく画面に廣瀬さんが大きく映し出された。
テロップで、

『9区 牧廣瀬(四年) 好きな食べ物は麻婆豆腐』

と映されている。
若いけれど、今とあまり変わらない廣瀬さんはほんのり微笑みながら、やわらかい声で、でも背筋を伸ばしてしっかりと話す。

『ここまでのメンバーがいい流れで持ってきてくれたので、僕は落ち着いて楽しく走れました』

『後輩たちが応援してくれてたけど、呼び捨てでしたよね? いつもあんな感じなんですか?』

え……あれ、後輩だったの?

司会者の質問に、廣瀬さんは照れたようにふわふわ笑う。

『はい。先輩だと思われてないみたいで、敬語使ってもらったことないです』

「ヤバい。たまらなくかわいいな、この人」

もっとずっと観ていたいのに、アンカーの金平くんへとインタビューは移ってしまった。
金平くんはチームのムードメーカーらしく、その軽快なトークに場は盛り上がっている。
その隣で、廣瀬さんも画面から見切れながら、おだやかに笑っていた。
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