マイ・フェア・ダーリン
唖然とする視界の中を廣瀬さんが「おはようございます」と三日月みたいな目で笑って通り過ぎていった。
それはいつもより少しだけ細く、無理をしたような笑顔。

多分、誰も気づかないほどささいな違いだった。
視線を向けられた時間もいつもより短い。
声のトーンもいつもより少し低い。
好きだからわかった。
開いてしまった、その距離。

「ちょっと出掛けます!」

始業とともに鳴り始める電話のベルを背に、私は事務所を飛び出した。
もし昨日この勇気が出せていたら、と後悔ばかりを胸に。

「廣瀬さん!」

声を掛けてから一拍遅れて、廣瀬さんは振り返った。

「はい。なんでしょうか?」

呼び止めたはいいものの、何を言ったらいいのかわからず「あの、あの、チョコレート、昨日、」とバラバラの単語をひとつひとつ捻り出す気持ちで口にした。

「……ああ、下柳さん喜んでましたよ。よかったですね」

「あの、あの、そうじゃなくて……」

最初から全部ちゃんと説明しないと伝わらないのに、時間がなかった。
廣瀬さんのポケットで携帯が鳴る。

「……すみません」

片手を軽く上げて、廣瀬さんは電話に出た。

「もしもし。お疲れ様です。牧です。……え! あー、積んじゃいましたか……困ったな」

何かトラブルらしく、携帯を一度耳から離し、通話口を手で塞ぐ。

「話しの途中で申し訳ないのですが、仕事で」

「あ、はい。大丈夫です! 全然たいしたことではないので!」

廣瀬さんは「すみません」ともう一度謝って、通話しながら走って事務所に戻っていく。
その背中をどうすることもできずに見送った。
今の気持ちがどうであれ、仕事はしなければならないから、私もすぐに戻らないといけない。
きっと事務課でも、電話が鳴っているだろう。

< 83 / 109 >

この作品をシェア

pagetop