マイ・フェア・ダーリン
「はあああああ。よかった……」
下柳の背中がドアの向こうに消えるのを見届けて、廣瀬さんはドサッとイスにもたれた。
「ありがとうございます。助かりました」
深く頭を下げると、
「間に合ってよかったです」
と五日目のお月様みたいな目でふわわんと笑った。
「まさかと思いますが、走ってきました?」
「はい」
当然、という顔でうなずかれた。
「近くにいたんですか?」
「いえ、職場から来ました」
廣瀬さんは腕時計に視線を落とす。
「荷物持ってコート着てるにしては、かなりいいタイム出ましたね」
「“タイム”って……」
「現役時代ならもう少し早く着けたんですけど、すみません」
「いやいやいやいや! 職場からここまで何kmあると思ってるんですか?」
「せいぜい5kmでしょう? 俺たちの世界で5kmなんて全力疾走です」
「タクシー!」
「このくらいの距離なら走った方が早い」
タクシーがすぐ来たとしても五分はかかる。
そこからさらに十五分。
廣瀬さんなら走っても二十分かからない。
「……自転車と同じ速さで何十kmも走れるんですもんね」
「何十kmなんて、そんなそんな。タイムを気にしなければ20kmくらいは楽しく走れますけど、さすがに30km越えると苦しいです」
「私なんて、最近では200mも走ってないですよ」
「そうでしょうね。ふくらはぎを見れば一目瞭然……」
と、テーブルの下を覗き込むので、
「やめてーーー!!」
とテーブルをバンバン叩いた。