マイ・フェア・ダーリン
玄関でブーツを履くと、廣瀬さんも靴を履いて並んだ。
アパートの狭いたたきでは、コートとコートが触れ合うほどに近い。
確かに閉められていた鍵をカシャンと開けて、ノブに手をかけたまま、廣瀬さんは動きを止めた。
「もうひとつ、嘘をつきました」
笑っていない廣瀬さんは、怖いほどに真剣だった。
「さっき『冗談です』って引き下がったのも嘘です。積極的に返したいとは思ってません。だから……やっぱり、考え直しませんか?」
それでも私が「帰る」と言えば、すぐにドアを開けてくれる人だ。
私が意思表示しない限り、その気持ちを押し付けてはくれない人だ。
「だったらそのまま言ってくだされば」
「そのまま?」
「『帰らないで』って」
廣瀬さんはドアノブから手を離して、私の手を取った。
「帰らないで」
「あと、私だって、好きな人に名前呼ばれたらドキドキします」
「優芽」
何かがカチッとはまったように、私たちはどちらからともなくキスをした。
大事な最初のキスのBGMが、リビングから漏れてくるマヌケなCMソングである間の悪さが、相変わらず廣瀬さんらしい。
それがおかしくて、一度顔を見合わせてふたりで笑った。
自分の目が恋で潤んでいくのがわかる。
そして廣瀬さんもまた、同じ目をしている。
大好き、大好き………
頑なに出てこない声の代わりに、この気持ちが伝わればいい。
もどかしさを埋めるように、キスはどんどん深まって、ただその口の中の熱さだけが感覚を支配していった。
突如として唇を離した廣瀬さんは、真剣なまなざしで見下ろし、私を肩に担ぎ上げた。
「わ!」
ブーツを少し苦労しながらもポイポイと投げ捨て、自身も室内に上がったところでちょっとだけよろめく。
「待って待って! 私じゃないの! コートが重いの!」
こたつもテレビもつけっぱなしで移動した先は、リビングの隣にあったベッドルームで、まだ暖気してないそこはかなり寒かった。
だけど廣瀬さんは迷いなく私のコートを脱がせる。
「本当に重いね、これ」
急に寒くなったけれど、廣瀬さんの腕に抱かれると、まあいいや。だって廣瀬さんあったかいし、とその体温に安易に酔った。